素潜り旬さんの映画レビュー・感想・評価 - 30ページ目

緑の光線(1986年製作の映画)

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ああ、ミラベル。彼女の騒音、彼女以外の騒音に我々は翻弄される。彼女の声は常にすでに普通ではない音色をしていて、泣いたり喚いたりする。まるで赤子かヒステリーのように。そう、赤子とヒステリックになることの>>続きを読む

やさしい女(1969年製作の映画)

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『優しい女 自殺、ブランケットと男』

「女が自殺した直後、ブランケットが舞う」

あのブランケット。映画的演出のステレオタイプだとも言って良いあのブランケットはなんだったのか。

男に厚
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ヘイトフル・エイト(2015年製作の映画)

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集団心理における、野性の勘というのは外さないわけで、誰が敵で誰が味方だということは簡単にわかるのである。人はいつからかこうした勘を手に入れ、いつからその勘を使わなくなったのだろうか。そんなこと分からな>>続きを読む

ヘイル、シーザー!(2016年製作の映画)

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劇中劇が(劇中劇と分からせる演出なこともあり)大味なせいで、それが劇中劇中劇に見えてしまい、そのせいで本当の劇中劇中劇がさらに大味に見えてしまう。それが『ヘイル・シーザー』の良さであり、映画というもの>>続きを読む

シェイプ・オブ・ウォーター(2017年製作の映画)

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「半魚人と耳が聴こえない女性による可憐なミュージカル」だと俺は考える。
縦横のシーン移動によって劇的なる場面の切り替えをある場面では選択し、さらに前後のシーンの音がほとんど繋がっている。鳴っている音
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長江 愛の詩(2016年製作の映画)

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話はいたってシンプルで、主人公の男の船は長江の上流へ向かい、女性はその先々で待ち受けるも、上流へ行けば行くほど若返っている。しかし、女性は男を追っているので記憶は男性と同じ軸にある。つまり女性は長江の>>続きを読む

Guava Island(2019年製作の映画)

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解放を宣言する場合に、俺たちに必要なのは音に合わせることであり、それはミッキーマウシングでも構わない。同調するのは周りにではなく、音楽に。であり、ひとりで行うことではない。すべてを構築し島をを完成させ>>続きを読む

ディザスター・アーティスト(2017年製作の映画)

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俺たちが把握することには、限りがあり、際限なく面白さを分かち合うこと、面白さに意味を持たせることを共有すること、なんてできないのだろう。意図したところ笑わせるだなんてコメディ以外もってのほか。意図しな>>続きを読む

サウダーヂ(2011年製作の映画)

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俺たちが俺たちであること、俺たちが、個々の俺でしかないこと、そして俺たちの間には、思考に隔たりがあるように誰一人として思考が繋がっていないように、隔たりがある。この隔たりは、考えずともわかるほど、当た>>続きを読む

最高殊勲夫人(1959年製作の映画)

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最初から山場のプロポーズまで、ひたすらシンメトリーで攻めている。というのも若尾文子の可愛さや茶目っ気、コメディとベタなラブストーリーをシンメトリーで描くことによって際立てており、お陰でカメラワークは固>>続きを読む

はじまりのうた(2013年製作の映画)

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劇中ほとんどのシーンで歌が流れているため、会話というよりは表情でみせており、とても役者さんの力が溢れていた。顔面の柔らかさが凄い。
音楽のクリーンな部分がすべて描かれている気がするが、クリーンになりき
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(2017年製作の映画)

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ぶつぶつ呟く山田孝之の抑えた演技が情緒あふれるように見えるのは、会話が表情に比べて軽妙だからだろう。
同級生のふたりの関係性が徐々に明らかになっていくわりに明らかにならない部分の多さ、塩梅が詩的に感じ
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ジョーカー(2019年製作の映画)

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この映画の主役はジョーカーだけれど、どこにでもいる道化の物語である。人は皆道化であり、それは太宰治の言うところでもある。太宰はそれをひとりの人間として描いたが、トッド・フィリップスは大勢の人間として描>>続きを読む

ヨーゼフ・ボイスは挑発する(2017年製作の映画)

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人間が飯を食うときに、肉片としてでなく、動物として認識してしまう場合に、食べられなくなる、という現象があったりなかったりだが、俺の場合のうさぎがそうだった。ヨゼフ・ボイスのベストが頭によぎってしまう。>>続きを読む

J・エドガー(2011年製作の映画)

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ここぞってところで(急に。笑)出てくるアダム・ドライバーの存在感がとてつもなく、ほとんど出てこないのに大事な役割を担わされているため、信頼を監督から得ているのがわかる。彼も自身の役割を理解しているから>>続きを読む

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