信長や光秀、村重など「衆道の契り」で結ばれた武士たちが「伝統」ならば、百姓上がりの茂助や秀吉みたいに欲望のみで押し渡る成り上がりたちは「革新」なのか。中世の終わり、近世の始まりの時代を独自の視点で描く>>続きを読む
映画は、撮影時(1973年)の京都の雑踏シーンから始まる。街を行き交うお洒落で屈託のない笑顔で語り合う女子大生たち。物語はわずか4年前の出来事なのに、そのギャップ、彼我の違いを端的に描いているオープニ>>続きを読む
錯綜する13年の時間と、帯広・石巻・大阪・東京の地理的移動。それらに伴って変化する複雑な人間関係。しかし、映像は美しく、流れるようなカメラワークで長尺3時間も苦にならない。
それにしても岩井監督は女>>続きを読む
部長刑事を演じさせたら右に出る者のいない芦田伸介。上司からは難事件を任され、部下からは頼りにされる。上司には堂々と意見を述べ、部下に厳しく、そして何より自分に厳しい。足を使っての地道な聞き込み、粘り強>>続きを読む
1969年10月21日、国際反戦デーの新宿騒乱の夜に出会った二人――女教師と教え子の翌70年夏の別れまで、その〈禁じられた恋〉の姿を描く。
女教師を演じるのは岩下志麻。元全学連闘士で、日和った恋人(>>続きを読む
大林監督作品の特色・特徴を表わすのに、「過ぎ去った過去へのノスタルジー」が挙げられる。ノスタルジー、すなわち「郷愁」と言いかえてもいい。初期の尾道三部作から晩年の作品まで、大林監督はモノクロームの画面>>続きを読む
一人の少女の成長譚――過去のトラウマからの決別、新たな人生へ踏み出す過程、はいい。ラストにはほろりとさせられる。だけど、東日本大震災をはじめ関東大震災まで、その原因を「災いをなす地霊のしわざ」に求める>>続きを読む
一つの「事件」には、ふつう、被害者と加害者が存在する。この二つの存在を合わせて当事者とも呼ぶ。
当事者という要素を、この「福田村事件」に限って当てはめてみるならば、前者は村を訪れて朝鮮人に間違えられ>>続きを読む
特撮パートはさすがの80点。銀座上陸後のゴジラの重量感、威圧感、虫けらのごとく人間を踏み潰す残酷性、放射能熱戦発射のカウントダウンよろしく隆起する背びれなど、このあたりは山崎監督の同檀上。
一方、危>>続きを読む
新幹線で上京する野枝。新宿駅西口で野枝にインタビューする現代の女子大生。高速道路わきで行われる殺陣……。時空間はねじくれ、大正末期と撮影当時(1969年)が交叉する。
画面下ギリギリに人物を据えたカ>>続きを読む
静かな、だけどものすごい熱量を持った映画。
必要最低限としか思えないセリフ、音楽もギターの爪弾きのみ。これまで見慣れた映画世界から異世界へ入っていく。
聴覚障碍者ゆえしゃべること困難なヒロインのセ>>続きを読む
入学式を彩った桜の花が、卒業式を象徴する花になったのはいつのころからだろうか。これも地球温暖化の影響なのか。映画の舞台になった山あいの町と高校を埋め尽くすように咲き誇る満開の桜を見て、そんなことを思っ>>続きを読む
昭和という時代を手放しで美化するつもりはさらさらなけれど、あの頃には確かにこの映画に出てくるようなおせっかいなほどに子どもに対して愛情を注ぐ教師、養父母ら、損得抜きな善人が存在していた。ドライで効率性>>続きを読む
これも時代の趨勢というものなのだろうか。60年代末から70年代初めにかけて、それまで主に東京山の手の中・上流家庭の子女を主人公に「清く明るい青春像」を描いていた東宝映画にも変化の兆しが芽生え始める。そ>>続きを読む
職務に忠実で部下思い、いざというときには先頭に立って戦う反面、家庭人としては失格……。ジョン・ウェインはこういう愚直で不器用な男を演じさせると抜群にうまい。日本映画に例を探ると、倉本聰脚本作品の高倉健>>続きを読む
村上龍の小説タイトルを借りるならば、「オールド・アナキスト」かな?
爺さん、婆さんを演じる岡本監督常連の役者さんたちがすごい。棺桶に片足突っ込んだ老人ばかりだがそこは戦争体験者。言うこと、やること>>続きを読む
陽気で軽快なデキシーランド・ジャズ「聖者の行進」で始まり、「聖者の行進」で終わる異色の戦争映画――いや、反戦映画、と言った方が正しいのかもしれない。前線の兵士を慰問するための音楽学校出身の少年軍楽隊が>>続きを読む
やさしさだけが、本当にそれだけが取りえの若者と、やさしさに加えて長い人生で手に入れたたくましさを兼ね備えた老人が、ひょんなきっかけで接近遭遇。
ある時、ケンカに強くワイルドで女の子にもてる原田芳雄や>>続きを読む
きわめてわかりやすい二項対立(A対B)の図式で描かれている。それぞれの相対する視点から戦争を仮想体験することで、戦争を知らない世代にも、戦争を知っている岡本監督の反戦思想が伝わっていくだろう。同時に、>>続きを読む
国威発揚、メダル至上主義、政治・商業イベント、IOCのぼったくり男爵と金権まみれの主催団体……堕ちるところまで堕ちた現代のオリンピック。加えて世界中に蔓延する新型コロナウイルス感染症の中、賛否を押し切>>続きを読む
おそらくこの映画を観た多くの人が、同じスタッフで作られた『シン・ゴジラ』と比較してしまったことだろう。
『シン・ゴジラ』は、ある日突然上陸して破壊活動を始めたゴジラに対して人間(特に日本人)がいかに>>続きを読む
うだるような暑さが、野良犬を狂犬に変える。
それにしても、本作でも後の『天国と地獄』でもそうだが、黒澤監督の犯罪者断罪の姿勢は半端ない。悪い奴は悪いのだ、そこに戦争のせいとか貧乏のせいとかの理由付け>>続きを読む
若くして逝った彼女の魅力がこの映画のすべて。夏目雅子は、その最も美しい姿を永遠にスクリーンに残したのだ。
生まれも育ちも、氏も素性もわからないままに、文字どおり野良猫のように家にいついてしまった女。>>続きを読む
冒頭、黒ずくめの中山美穂が亡き恋人の三回忌のために雪の原を降っていくシーンから、これはただものではない映画だ、という予感が走る。全編を通して原色はほとんどなく、冒頭と同じ雪のモノトーンが支配する。美し>>続きを読む
どの自動車にもカーナビゲーションシステムが標準装備されている現代から思えば、夢のような30年も前のお話。
「次の交差点を左折して下さい」。
人工音声のカーナビの指示に従って運転していれば、何も自分>>続きを読む
いっしょに所帯を持とうとか、この町を出ていこうとか、そういった前向きなことをいっさい無視して、ただただひたすらに互いの体をむさぼりあい、SEXに溺れる日々。そのやり切れなさ、そのいさぎよさ。
赤く染>>続きを読む
『桃尻娘』の竹田かほりと、『サード』の森下愛子。この二人は当時のぼくにとってのB級アイドルのツートップ。もう一人、高沢順子もいたけれど、あの半端ないやさぐれ感にパス。
久しぶりにスクリーンで観たけれ>>続きを読む
主演の前川麻子がいい。とびきりの美少女ではないし、胸だって小さい。地方都市のどこにでもいそうな女子高生。
青空に飛んでいく風船と、落下する少女の切り返しにハッとさせられる。このシーンから映画の雰囲気>>続きを読む
「写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま――ほんのときたま――1枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことができる」(ユージン・スミス)
ぼくが今までに見た写真の中で忘れ>>続きを読む
西河克己は生涯に2本の『伊豆の踊子』を撮っている。1本が吉永小百合・高橋英樹版の本作(1963年)で、もう1本が1974年の山口百恵・三浦友和版。
本作評価のポイントにモノクロのプロローグとエピロー>>続きを読む
新潮文庫版『行きずりの街』の解説で北上次郎が書いているように、原作者志水辰夫は「冒険小説家ではなく、ハードボイルド小説家でもなく(もちろん、そのどちらの要素もあるのだが)、すぐれた恋愛小説家」である。>>続きを読む
劇中、フランキー堺が会社の後輩の高島忠夫に「出世するための三条件」を教える場面がある。曰く、第1条「社長の娘と結婚すること」、第2条「労働組合の幹部になること」、第3条「社長の弱みを握ること」。第1・>>続きを読む
「自由とは戦い取るもので、座して与えられるものじゃないということだ。そして、戦い取った自由にだけ、価値があるということだ」(平井和正『狼のレクイエム』)
他国を植民地化して支配したことはあるけれど、>>続きを読む
初公開で見逃して以来、ずっと観たかった作品を、デジタルリマスター版で鑑賞。
「誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく」
そもそも夏子と美津、2人>>続きを読む
東日本大震災から10年後の、その日に鑑賞。東電よいしょのプロパガンダ映画と悪評判の『Fukushima50』に対して、こちらは東電何やってるんだ、というスタンス。大事なことは10年経っても事故の真実は>>続きを読む
80年代の始まりって、こんな雰囲気だったなぁ。ファッションも音楽もライフスタイルも、それまでとはすっかり変わっちゃった。まだどこかとんがっていた感じの70年代と、バブルに沸く80年代後半の間にあって、>>続きを読む