このレビューは、本作に加えて、同年に公開された続編『続・青い山脈』2本を併せてのものになります。
地元ボスが牛耳る地方都市。古い因習にとらわれ、閉塞感に満ちたこの小さな町にある高校も、策謀をめぐらす>>続きを読む
古き良き日本の美しさを追求した川端康成が、ロリコン趣味だったのは有名な話。そうした川端の「美意識」「倒錯感」が凝縮された作品。
かつて31歳の妻子を持つ男性が愛してしまったのは、16歳の女子高校生。>>続きを読む
なんてスタイリッシュな映画だろう。
闇に浮かび上がる教会、押し広げられるドアのシンメトリーな構図。深夜のチキンレースの疾走感。タバコの煙と人いきれで息苦しい賭場。――光と影が織りなすモノクロ画面の美>>続きを読む
コケティッシュで露悪的、両切りタバコをくゆらせ、中年男性を誘惑する久我美子。早春から初夏の釧路を舞台に、その小悪魔的な魅力が描かれる。森雅之演じる中年男性、桂木を誘惑し、翻弄すると同時に、桂木夫人にも>>続きを読む
劇中、局所をペンチで切断された室田日出男。その後、精神に異常をきたした彼がボソボソとつぶやく「たっくるせ、たっくるせ」がトラウマとなってしまった。
鎌倉北高校写真部の、その年の春休みの課題は、「春―来たりて去る」。部員たちは、休みが始まるとカメラと三脚を携えて鎌倉の街に飛び出していく……。
高校2年の終業式に始まり、3月31日の母親の命日をはさ>>続きを読む
色調を抑えた暗鬱とした画面。ダンケルクから望むドーバー海峡は、黒を交えた青の中に広がっている。そこにあるのは、ただ焦燥感のみ――「早く助けに来てくれ!」「早くたどり着きたい!」……。
空・海・陸、そ>>続きを読む
娘を嫁に出す親、いわゆる「花嫁の父」を描いた古今東西の映画って、娘の結婚になんだかんだ反対しても、結局、最後は許してしまうっていう、ある種、予定調和みたいなものがあるんだよね。ぼくも含めて、みんなそん>>続きを読む
実は、テレビドラマ放映時に観た記憶はありません。おそらく何編かは親といっしょに観たと思うのですが、何か世の中の暗い部分だけを観せられたような気がして、無意識に忘れていたのかも知れません。
兄弟同士の>>続きを読む
上手いなぁ、成瀬監督。絶品だよ。
日本橋芳町の置屋「つたの屋」。花柳界に生きる女性たちの日常が、室内劇を中心に描かれていく。小さないさかいや、思わぬ事件、人と人の出会いや別れがあるけれども、しょせん>>続きを読む
かねてより村田英雄が歌う無法松には、豪放磊落、強きをくじき弱きを助ける男の中の男、みたいなイメージを持っていましたが、この映画を観て、実は権力や体制にはからきし弱い男だと、ちょっとがっかりしてしまいま>>続きを読む
1972年のぼくに訊きたい。――君は、この映画に出ていた二人のどちらの女の子が好きだった?
国木田アコと蕭淑美(シャオスーメイ)。全く対象的なタイプの美少女二人。高校3年生の夏休み。8ミリ映写機を持>>続きを読む
新聞は社会の木鐸だという。その立場を忘れた戦時中の大政翼賛への反省から、新聞記者をはじめとする戦後のジャーナリストたちは、反骨精神のもと徹底した反権力、真実の報道に邁進する……。この映画に登場する記者>>続きを読む
「任侠道か?……そんなものは俺にはねえ……俺は、ただの、ケチな人殺しだ……」
任侠道が義理と人情のしがらみに生きる世界ならば、これは、任侠道を否定する任侠映画だ。
熊井啓監督による遠藤周作原作の映画化最終作。過去の映画化作品が高評価を得ていることに異論はない。ところが、本作は……残念ながら、熊井監督、老いたな、という一言。
リヨンの古い街並み、ベナレスの雑踏、>>続きを読む
宮部みゆきの原作に忠実に、ドキュメント形式、ルポルタージュ形式で全編が貫かれているこの映画。わざとらしくフレームインする集音マイク。茶菓子で接待する場面でわざとらしくカメラ目線を送る家族や秘書役などが>>続きを読む
何歳になろうと、どんなに爺さんになろうと、上映されている映画館があれば、這ってでも観に行きたい映画。
若い頃に観て感動した映画の中には、歳を取って観直してみたら、「あれっ?」て感じてしまう映画が少な>>続きを読む
「男性」アイナーから、「女性」リリーへの変貌過程に息を呑む。頼まれモデルとして戯れに穿いたストッキングは、「彼」が封印していた性癖を目覚めさせる。妻ゲルダとの満ち足りた生活を送る一方、とまどいながらも>>続きを読む
やたら議論する70年代の日本の若者たち。それは、新宿駅西口広場のフォークゲリラを写したドキュメンタリーでも観たことがある光景だった。広場で、歩行者天国で、酒場で、職場で、ひたすら語り続ける若者たち。議>>続きを読む
初めてこの映画を観た頃、ぼくは、「栗田ひろみの出た大島渚の映画」を観に行ったのか、「大島渚の映画に出た栗田ひろみ」を観に行ったのか。今になっては覚えてもいないことだし、そんなことどうでもいいことなのか>>続きを読む
「死因は何だ?」
「お義父さん、私は佐倉ファミリーの一員ですよ」
血は水よりも濃いと言う。しかし、閨閥はそれをも凌駕するのか。日本的な、あまりに日本的な、「ゴッドファーザー」譚。
「うち、ぼんやりやけん…」。
そう呟いては、それまで結婚にも、心労による脱毛にも、肉親たちの死にも、右手を失ったときにも、喜怒哀楽といったすべての感情を押し殺して生きてきたすずが、ただの一度、激情を>>続きを読む
これぞ文芸映画と言える、端正な映画。
軒を連ねる町家、化野念仏寺の石仏群、屹立する北山杉の群落……。はらはらと散る桜、祇園祭の雑踏、路地をゆく大原女、北山しぐれ、夜の淡雪……。森嘉の豆腐、龍村の織物>>続きを読む
ダイジェスト版「坂本龍馬」と言ったところか。有名なエピソードをつないだうわべだけの「龍馬伝」では、彼の生きた幕末と呼ばれた時代が日本史の中でどのような意味を持っていたのか、そこでの龍馬の役割や存在価値>>続きを読む
惚れた女の命を救うためか、非道を重ねる旗本一派への義憤か、鬱屈した日々への居直りか、はたまた武士としての矜持ゆえか。
ボブ・マーリィを彷彿とさせる、ざんばら髪の原田芳雄の鍛え上げられた肉体美。一人斬>>続きを読む
吉永小百合が敢然と言い放つ、「貧しいから弱くなるのか、弱いから貧しくなるのか」、あるいは「一人が五歩進むよりは、十人が一歩進むほうがいい」というセリフ。
映画はナマモノだから、それが作られた時代の状>>続きを読む
公開当時、〈日本版『天井桟敷の人々』〉みたいに言われていたのを覚えている。たしかに、アジールにも似た貧民窟に蝟集する、侍くずれ、政商、琉球人、娼婦、チンピラ、食い詰め者、大道芸人らを全面に押し出した群>>続きを読む
「フランシーヌの場合」なんて今の若い映画ファンは知っているのだろうか? あのシーンだけで笑える僕らは幸せ者なのかもしれない。ところでこの映画のタイトル、「じんべつちょう」と言っているけれど、「にんべつ>>続きを読む
郷ひろみの「2億4千万の瞳」(1984年)の歌詞じゃないけれど、これは視線の映画、眼力(めじから)の映画に他ならない。
ギラギラした情念そのままの三船敏郎の眼光。無垢の魂と虚無の静謐さが同居する森雅>>続きを読む
明治以来の近代日本を支え続けていた大家族制度の崩壊、つまり良くも悪しくも戦前の「日本的なもの」からの脱却を叙情たっぷりに描く。ぼくにとっては、小津作品の中でのベストがこの作品。
三世代同居の知識人>>続きを読む
すげぇ映画だッ!
言いたいこと、書きたいこと、伝えたいことは、それこそ山のようにあって、徹夜してでも語り合いたい。3・11後の福島第一原発事故との関連、『エヴァンゲリオン』や岡本喜八映画へのオマージ>>続きを読む
当時としては珍しいアバンタイトルで始まる。丸一日かけての、東京(乗車駅は横浜)から九州の佐賀までの列車での移動が描かれるプロローグで、観る者はまず物理的距離と時間的距離に圧倒される。
物語の前半は、>>続きを読む
日本の幽霊が、恨みつらみで祟る怨念の表象、怖い存在なのに対し、アメリカのゴーストは、同じように恨みつらみは持っていても、妙に陽気で騒々しい存在だ。怖がらせるのではなくて、驚かせることに夢中のようにも見>>続きを読む
現在は東急沿線のハイソな街、九品仏の住宅地も当時は未舗装の砂利道。下駄ばきの裕次郎も走りにくそうだ。何よりも浄真寺の境内は、これが東京都内とは思えないような森厳な古社寺の趣。
『青い山脈』(1947年)で戦後民主主義の揺籃期を描いた石坂洋次郎センセが、引き続きその成熟期を舞台に筆を執った『陽のあたる坂道』(1957~58年)。彼にとって戦後民主主義を体現する存在は、自らの意>>続きを読む
ロビンソン・クルーソーにせよ15人の少年たちにせよ、絶海の孤島に流れ着いた欧米のサバイバーたちに共通しているのは、楽観的にも見えるような前向きなフロンティア・スピリッツ。その背景には、コロンブス以来の>>続きを読む