シゲーニョ

TAR/ターのシゲーニョのレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.5
「思い込みが激しい」のは良くないと、つくづく反省させられた作品である。

劇場鑑賞前、トレーラーやネットでの簡単な粗筋紹介を見たり、読んだりした自分は、高名で権威主義の指揮者が、とあることで恨みを買い、嫌がらせを受けたり命を狙われたりして、人格崩壊・精神崩壊する、一種の「ミステリー映画」だと、勝手に思い込んでいたのだ。

劇場での鑑賞中も、そんな偏った見方は、物語が進む中盤あたりまであまり変わることがなかった…。

主人公リディア・ター(ケイト・ブランシェット)のN.Yでの講演会。
これまでの錚々たる経歴を紹介されるリディアの様子を、観客席後方で見ている「赤毛の女性の後ろ姿」。
これはダリオ・アルジェントの「サスペリア PART2(75年)」の冒頭で、超心霊学会の講演を客席で聴く真犯人の姿を思い起こさせる。

また、リディアの家中で響くランダムな騒音、それによる不眠症。
ジョギング中、公園で聞こえる女性の悲鳴。
そして、リディアの周りに隠れ潜む何者かの影、彼女が見る幻覚の数々…。

[劇場で観ていて、席から飛び上がるほどビックリしたのは、真夜中、養女のペトラ(ミラ・ポゴイェヴィッチ)が呼ぶ声で飛び起きたリディアの奥に、ぼんやりと椅子に座っている見知らぬ誰かの姿が一瞬、映るシーンだ!!]

あくまでも個人的な感想だが、本作「TAR/ター(22年)」の最大の魅力は、映像と音でしか表現しえぬ「仕掛け」が、最後の最後まで奇跡的に機能している点に尽きる。

ミステリーの定義とはまず謎が掲示され、一定のプロセスを経てその正体が明かされることだ。
しかし、この映画で掲示される謎は、全く先の読めない物語が一体どこに「着地」するかの一点である。

リディアの苦悩と焦り、怯えと怒り、そして孤独とプライドが、複雑に混じり合った結果、まさに終盤、ラストシーンの僅か数分で、誰もが予想しなかった「場所」に見事に「着地」するのだ(!!)。

その瞬間、全てが初めから完結していたことを、つまり謎と同時にその正体がさり気なく繰り返し眼前に提示されていたことを知り、鑑賞後の自分は、ただひたすら驚愕することしかできなかった…。

本作は犯人探しを目的とした「ミステリー映画」では無いし、堕落する権威者の成れの果てまでを描いたヒューマン・ドラマとも言い難い。
観る人それぞれが、提示された映像・音(そしてちょっとしたダイアログ)というパズルのピースを、思い思いに組み合わせることで、如何なるジャンルにも変容すると思う。

開巻いきなり、リディアの部下○○と思われる人物がアップした動画で、チャットしているやりとりがある。

映し出されている画像は、機内のファーストクラスで、困憊して爆睡しているリディア。
そこに送信者から「ウチの娘(=リディア)は朝型タイプじゃ無かったっけ?」のメッセージ。それに対し、○○は「幽霊に取り憑かれているのよ」と答えると、送信者は「それって、彼女に良心があるって意味?」と尋ねる。すると○○は「そうかもしれない…」と返信する。

このチャットでの会話は、本作のプロットを予示している。
なぜなら本作は、過去に犯した罪に直面したリディアに、どのような影響が及ぼされるのかを探究するハナシだからだ。
このワンシーンは、一見すれば「抑圧的なゴーマン上司と、それによってストレスを受けている部下」の構図だが、我々観る側は、これからの2時間半あまり、如何にして、リディアが良心の呵責に苛まれ、徐々に憔悴していくのかを目にすることになる…。

この短いシーケンスには、プロローグながら本作「TAR/ター」という映画の“構造”が端的に顕されていると思う。

世の中における殆どの事象には、「表層と深層」という2つの面がある。
見聞きできる表面と、見聞き出来ないその裏側。

人間は往々にして、情報が全て開示されない場合、“想像”やこれまでの体験で培われた“既成のイメージ”で、足りない部分を勝手に埋め、理解したつもりになって他者を判断する。

この冒頭のチャットのやりとりは、その好例であろう。
○○と送信者にとってのリディアは、傲慢な権力者に見えるだろうし、その転落ぶりも自業自得と思えてしまうのだろう。
しかし、視点を変えたり、観る側の気持ちの置き方によっては、リディアの人物像が変わり、作品全体の様相までもガラッと変わってしまう。

つまり、己の見方にあった先入観や思い込み、偏見というものに気付かされていくことになるのだ。

そして次に映し出されるのが、なんと「エンドクレジット」(!?)
「リディアは結局、周りから見ればこういう人物だったんですけど、本当にそうだと思いますか?最初から見てみましょう!」という、監督トッド・フィールドからのメッセージに思えてしまう。

リディアは多くの名門で音楽を学び、指揮者としてプロの経歴をスタートすると、数々の楽団で指揮をとり、女性で初めてベルリン・フィルの首席指揮者となるなど、華々しい経歴の持ち主。

当然、自信満々で、あらゆる難題をその博識でクリアし、場を支配していくリディア。
そこには「凄み」と同時に、「怖さ」みたいなものが伝わってくる。
「感じ悪そう…」とか「こんな人が上役だったらシンドイな…」と思わせるような圧力感がマシマシなのだ。

例えば、劇中、講演会で司会者から「指揮者はメトロノームのようなもので、単純な仕事ではないか」と揶揄された際、リディアはこう反論する。

「指揮者は時間をコントロールしている。
 指揮者は時間を止めることが出来るし、
 指揮者がいなければ時は進まない」

時間さえも支配出来るのが指揮者であるという主旨の発言は、リディア自身の「全てをコントロール出来る立場である、力がある」という、幾分思い上がった自負心の表れであることを想像させる。
(この発言は、関係者を含む観衆の誰かの反感を買うことになり、後々、真夜中の自宅で突然メトロノームが動き出す悪質なイタズラを受けることになるのだが…)

しかし、リディアの劇中での言動を注意深く見れば、彼女がちゃんと人の“言葉”を聞き、真摯に答えていることが分かる。
むしろ、一つ一つの事象に真剣に対応して、権威者という重圧・緊張に耐えているようにも思えてしまう。

でも、ずっとそばにいる人達からすれば、見た目や言い方の圧が強すぎて、彼女の健気さ・生真面目さに気づくことなど最早できないのだろう。

それを象徴するのが、ジュリアード音楽院での指揮科の授業、10分30秒にも及ぶワンシーン・ワンカットの長回しの場面だ。

緊張すると貧乏ゆすりをする黒人の学生マックス(ゼスファン・スミス=グナイスト)は、自分は「BIPOC(=黒人、先住民及び有色人種)」であり、「Pansexual(=従来の男女という区別から完全に切り離された性別)」なので、多くの妻を娶り、20人もの子供を作った「家父長制の権化のような白人」であるバッハは受け入れられない、だから聴くつもりもない、とリディアに言う。

それに対し、リディアは「音楽家を出自や属性によって評価すべきでない」と言い返す。

きっと、音楽家を音楽以外のことで評価してしまったら、己自身もいつか、性別や性癖など、音楽以外の要素で評価されてしまうことになる。
それは「天に唾する行為」だと言いたいのだろう。

このシーンは、表層面のみに注目すれば、権力を持った年長者が、無知な若者を理詰めで追い込み、恥をかかせ、論破するという、ある種のハラスメントのようだ。

しかし、この場所は音楽院なのだから、教師と生徒に上下関係があるのは当たり前だし、音楽を学びにきた学生が音楽よりも自分のことをガナリ立てるのならば、「身をわきまえろ」と軽くいなせばイイだけ。

だが、リディアは放っておけず、マックスの将来を考えて、生真面目に対応してしまう。

ただし、2度目の再鑑賞時、リディアとマックス、どちらが正しいのか分からなくなってしまった…。
繰り返しになるが、ジュリアードは音楽を学ぶ場であり、彼らが教師と生徒であるという立場から見れば、リディアが間違いなく正しい。しかし、一己の人間として、心が感じたことに忠実であろうとするマックスにも、正しさはある。

これは互いの意識・考え方の発露、その違いでしか無く、どこまでもすれ違いし続けるしかないのだ。

そして、この場面をワンカット・ワンシーンで撮りきることを決断した、監督トッド・フィールドの演出が素晴らしい。

もしもカットを割ってしまっていたら、観る側が、作り手の意図に視点を操られてしまうことになる。
論破するリディア、追い込まれるマックス。
そのワンカット、ワンカット、映し出される表情・尺の長さだけで、印象が異なる可能性だってある。

でも、カット割りが無い長回しの場合、視点の操作が生じないため、観る側があたかもその場で起こる事を、実際に“冷静且つ公平に”観ているような感覚に陥るのだ。

また劇中、リディアはパトロンのカプラン(マーク・ストロング)に、「誰かの演奏の真似をすることに栄光はない」と言い、さらに「真似をする人」を「ロボット」と呼んで軽蔑する。
まぁ、音楽に関しては「妥協しない!忖度しない!」という、彼女の「音楽に対する本気度」が伺えるシーンなのだが、本当のリディアは「人の真似」ばかりだ。

序盤、部屋の床に並べたレコードを、裸足で選り分けるシーンがある。
数日後に録音・発売する予定のCD「マーラー/アダージェット」のジャケ写を、これまでのマーラー関連のアナログ盤のジャケットから参考にしようと企んでいるのだろう。

リディアが裸足の爪先で指し示したレコードは、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルを指揮したバージョン。
この後リディアは、クラウディオ・アバドと同じ服装、ポーズを真似て、写真撮影に臨む…(笑)

そして、リディアはセクシャリティを気にしない。
娘のペトラの前では「自分はパパだ」と自覚しているし、団員に「マエストロ(=指揮者を意味する言葉だが、男性の敬称としても用いられる)」と言われても気にも留めない。

だが、リディアの公私のパートナー、シャロン(ニーナ・ホス)を主婦のように扱き使い、自分は仕事を優先。出張すれば羽目を外して浮気。また一人になれる別宅もあって、秘書のフランチェスカ(ノエミ・メルラン)に鍵を持たせて出入りさせている。

これは英国人女流作家、ヴィタ・サックヴィル=ウェストの模倣だろう。

自分をこう思わせたのは、リディアが貰う、送り主不明のプレゼント。
その一冊の本が、ヴィタ・サックヴィル=ウェストの「Challenge(1923年)」だからだ。

作者ヴィタと恋人ヴァイオレット・トレフューシスの実生活におけるロマンスを基にした小説で、「もしもヴィタが私から離れたら自殺する」という、ヴァイオレットの脅迫めいた言葉が綴られている…。

ヴィタはバイセクシャルで、ハロルドという夫がいる身でありながら、ヴァイオレットと駆け落ちしているのだが、ヴィタがオープンリレーションシップ派だったため、ヴァイオレットはハロルドとヴィタの夫婦関係を共有することに耐えられなくなってしまう。

これをリディアの人間関係に当て嵌めてみると、ヴィタ=リディア、ハロルド=シャロン、ヴァイオレット=フランチェスカになる。

リディアは過去にフランチェスカと恋愛関係になりながら、シャロンとのパートナー関係を解消するつもりもなく、そんな関係に耐えられず、フランチェスカは身を引いたのだ(多分、別れた今でもリディアを愛しているはず…)。

本の送り主は、その事実を当て擦る意味を込めているのだろう。

そして、送られた本の扉ページには、「六角形を組み合わせた迷路のような幾何学模様」が描かれている。
この模様は、ペルー東部のウカヤリ渓谷で暮らす、シピボ・コニボ族に由来したもので、先住民音楽の研究をサイドワークとしているリディアは、過去にシピボ・コニボ族と数年間を過ごした経験がある。

その旅でリディアに同行したのは、フランチェスカとかつての教え子XXXXだけだ。

迷路のような幾何学模様は、「Challenge」の扉ページだけではなく、何度も劇中で映し出される。
ベルリンの自宅にあるメトロノームのカバー、ペトラの粘土…。

この模様は、主にシピボ・コニボ族の布や壺などに描かれていて、蛇のウロコ模様を模したものと云われている。
蛇はシピボ・コニボ族にとって神聖なる生き物で、“浄化”を意味しているらしい。

そう考えると、劇中、後半でのリディアがうなされる悪夢のシーンなのだが…

密林に囲まれた川に浮かぶベッドに横たわるリディアの方へ、泳いで向かってくる一匹の蛇。
そして彼女の胸元から炎が、突然舞い上がる。

自分だけかもしれないが、もしかしたら、これはリディアが過去の罪を受け入れ、浄化しようとしている“心の喩え”なのでは?と思わされてしまったのだ…。

また劇中、リディアがジッと動かず、押し黙っているシーンが殆ど見当たらない。

ジョギングするリディア、ボクシングをするリディア。

これは、立ち止まらず、不快な面を自力で振り払い、常に動き続けること、前進すること。
そんな彼女の決意を意味しているように感じられる。

本番前、緊張とプレッシャーに押しつぶされそうな時でさえも、たぶん、シピボ・コニボ族から学んだのであろう独特の深呼吸をして、体を動かし、手の震えを止め、自信ありげに振る舞うのだ。

さて、ハナシがだいぶ横道に逸れてしまったが…(汗)

リディアが一番に模倣するのは、音楽は勿論のこと、人生の師と自ら公言するレナード・バーンスタインだ。

実は彼女とバーンスタインに面識が無かったことが、終盤にきて明かされる。
リディアの年齢は劇中では明らかになっていないが、演じたブランシェットの年齢に合わせれば、1990年にバーンスタインが72歳で亡くなった時、リディアは10代後半。駆け出しの音楽大生の頃だろう。

実のところ、リディアはN.Yの下町で生まれ育ち、クラシックの世界で成功を収めるために、著名な音楽家や小説家といった芸術家を真似て、生まれながらのセレブを「演出」してきたのだ。

彼女が実家で見るVHSテープ。
モノクロのTV番組なので、その再放送を録画したものだろう。
リディアが見ているのは、バーンスタインが司会も務める「N.Yフィル/ヤング・ピープルズ・コンサート(58年)」の第一回放送「What Does Music Mean?」

この番組内で語られるバーンスタインの言葉は、幼きリディアに、音楽家になることのインスピレーションを与えただけでなく、人格を形成する上での重要なモットーになり得たに違いない。

「音楽は様々な感情をもたらしてくれる。
 言葉では説明できないんだ。
 感情とはそういうものでしょう?
 時に喜び、安らぎ、
 愛、憎しみすら感じることもある。
 言葉は必要ない。それが音楽の偉大さだ。
 音楽には動きがあり、
 常にどこかに流れながら
 変化していることを忘れてはいけない。
 音から音へね…。
 それが100万個の言葉より、我々の心を動かすんだ」
 
だから、リディアは、自分が発する言葉を重要視しないのだ。

(注:逆に他人の言葉は、その真意を推し量ろうとして熱心に聞くのだが…。
劇中、彼女の口から出る蘊蓄のほとんどは、部下のXXXに「話すエピソードは誰かの受け売りばかりね」と陰口を叩かれるように、自分の言葉ではない「他人主語」の印象が強い。)


序盤のN.Yの講演会でも、ジュリアード音楽院の授業でも、リディアはこう話している。
「歌い手が歌を創造した精霊と“同期した場合”だけ、歌を受け取ることができる」

おそらくだが、楽譜に書かれた「音符や記号、歌詞」=言葉ではなく、「曲の作り手の思いを感じ取れ!」ということなのだろう。

ただし初見時の自分には、リディア自身が内包する「ワタシのことをちゃんと理解していれば、わざわざ言葉で説明しなくても、自分の本意は相手に伝わっているはずだ!」という独善的な考え、相手のことを思いやらない“傲り”みたいなものにも、感じ取れてしまった。

劇中、リディアが人を疑ったり、嘘をついたり、利己的な発言をする場面では、台詞ははっきりと聴こえるのに、リディアの表情だけはほとんど映らない。
それは、バーンスタインから学んだ自分のモットーに反することであり、自分の本心を表情から汲み取らせないように繕う、彼女の卑小ぶりを演出的に示したものでもあるのかもしれない。

聞き手の戸惑い・落胆・怒りを表すようなリアクション、ジェスチャーだけで、如何にリディアが煙たがられているのか、手に取るように分かる。

副指揮者のセバスチャン(アラン・コーデュナー)にクビを宣告するシーンでは、敢えて表情を見せないように二人を画面奥に配置し、ワイドなTWOショットで捉えているし、フランチェスカが次期副指揮者の選に漏れた時は、リディアの話を聞くフランチェスカの愕然とした表情だけが映し出される。

また、お気に入りの新人チェリストのオルガ(ソフィー・カウアー)をエコ贔屓する場面では、その真意を理解したシャロンの表情。そして悪態を吐くリディアについに我慢できなくなり、車から降りようとするシャロンのシーンでは、バックミラーに映る運転席のリディアの眼差しが一瞬、カメラに捉えられるだけだ。

リディアが犯した「音楽のため、楽団のため」と自分の心を偽っての発言、打算的な行いの数々は、結局、権力者によるハラスメントという悪評をもたらすことになる。
自業自得と言ってしまえば、それまでのことだし、リディアがいくら否定しようとも、周囲にはそう感じ取られ、そう見えていたということなのだ。

だが、リディアの愚直なまでの音楽への情熱は冷めることはない。
ネタバレになるので詳細を書くことは止めるが、自分には地位や権力などよりも、音楽への真摯な思いが核にあるということを体現する、とんでもない行為をリディアは見せる。

そしてラストシーン。

ここに至るまでの経緯を鑑みれば、リディアが如何に落ちぶれたかを映し出す、悲劇的なものに思えるかもしれない。

しかし、鑑賞時の自分には、是が非でも権力を取り戻そうとするのではなく、自分が感じた音楽の素晴らしさを伝える、まさに初心をリディアが取り戻した瞬間に見えてしまった。

ゲーム音楽だとか、アジアに対しての偏見など度外視して、シンプルに「交響楽の面白さ」を伝えること。

そして曲が有名とか無名とか、オーケストラがメジャーとかマイナーとか関係なく、作曲家の意図をきちんと解釈しさえすれば、自分の個性次第で、指揮者は新たな世界を作ることが出来ること。

これはリディアが幼き時、TVで見て感銘を受けた、「N.Yフィル/ヤング・ピープルズ・コンサート」でのバーンスタインのスピリッツを「真似」ではなく、ちゃんと継承したことに他ならない…。


最後に…

本作の原題「TAR」とは、当然ながらリディアのファミリーネームのこと。
しかし、劇中の後半、リディアが周囲からバッシングを受け始めた時、アナグラムとして、自叙伝「TAR ON TAR(ター、自身を語る)」の中表紙のゲラ刷りに、「RAT ON RAT」と悪質な落書きをされてしまっている。
「RAT」はもちろんネズミを意味するが、スラングでは「裏切り者」「卑劣なやつ」として暫し使われている…。

だが、「TAR」は「ART」にも変換できる。
そう、リディアが「ART=芸術・音楽」の申し子であることを、暗喩したタイトルでもあるのだ(!!)


また、ホントにどうでもイイことだが…

終盤、フィリピンを訪れたリディアが、地元の青年から「この川はワニがいるから泳げないんだ。『マーロン・ブランドの映画』がワニを連れてきて、以来、住みついてしまったから」と説明を受けるシーンがある。

たしか劇場での初見時の字幕は「マーロン・ブランドの映画」ではなく、「地獄の黙示録(79年)」になっていたと思う。しかし、「地獄の黙示録」には、トラや牛は出てくるが、ワニが登場したシーンの記憶は全く無い。

他に思い当たるのは、マーロン・ブランドにゴールデンラズベリー賞最低助演男優賞という不名誉をもたらした「D.N.A/ドクター・モローの島(96年)」だけだが、ロケ地はオーストラリアのクイーンズランド…。

なので、本作「TAR/ター」には、レビューの冒頭にも記した多くの「ミスリード」が存在したように、この「マーロン・ブランドの映画」の件も、元ネタ探し好きの自分としては、結構モヤモヤするポイントだった…(汗)。

「地獄の黙示録」のカーツ大佐は、密林に自分の独裁国家を作ろうとする白人妄想狂。
「D.N.A〜」のモロー博士は、謎の孤島でヤバい実験をするマッド・サイエンティスト。

まぁ、どちらにしても、欧米の主要国から離れ、フィリピンという(交響楽に関して)発展途上の地で、新たな栄光の時代を築こうとする“元独裁者リディア”の姿と、思いっきりダブってしまうワケだが…(笑)