アー君

悪は存在しないのアー君のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
3.2
前作「ドライブ・マイ・カー」の世界的な評価後の新作にしては、公開規模が小さく上映されている劇場が少ない印象があった。このインディペンデントな状況を監督が強く望んだことであれば意思を尊重をするが、配給と製作側との齟齬が原因であれば、高い評価と注目をされている日本の監督であるだけに勿体無い気もしないではないが。

題名を観念的に捉えてしまうと謎かけのように主観で引き寄せられてしまい、逆に概念的に考えて社会通念上の常識にみてしまっても偏りがあり、物語の本質が半減をしてしまうのでバランスは大事にしなければならない。しかし鑑賞後の考察で題名に振り回されずに見るのもひとつの手段でもある。(宮崎駿「君たちはどう生きるか」も同様。)

[↓以下ネタバレを含む内容がございます↓]

ネオレアリズム映画のように子供を主役に据えて素人の起用を率先して使うゴダール、大島渚、そして喜劇人 萩本欽一。

敢えて演技経験のないキャスティングで逆に演出に幅を拡げる方法は60年代から使われている方法で特に異論はないが、説明会のシーンだとベテラン俳優と混じってしまうと露骨に浮いてしまうこともあり、監督側の指示で全体的な棒読みにした演技にさせないと可笑しくはみえてしまうところも多々あった。

音楽から本作の映画を膨らませたようではあるが、基本的な旋律が現代音楽家のフィリップ・グラスやマイケル・ナイマンに酷似しており、ミニマルさとリズミカルな反復が少し鼻についてしまい物語のトーンとは違う印象を感じる。

グランピングにおける説明会のシーンから住民側と会社側との二元的な解釈による善悪論ではない。人間の表裏にはもっと複雑な側面(車中の会話)があり、巧の家族内でも娘や女房との問題も然りではあるが、「ドライブ・マイ・カー」同様に本作も他人との関係性に相容れないというテーマも僅かに見え隠れはしている。

余談として地域住民への説明会は過去の経験からすれば、私はどちら側であったとは言わないがもっと生々しい記憶がある。近くに高層マンションが建つ云々で日照権とか住民側が法的に騒ぎ出し、偏った語弊があるかもしれないが、後ろで政治の息が掛かった左派系も入り乱れて陰気な迫力はあった。本作にも多少なりの民間と行政の批判もあるだろうが、戦前に不動産業を着手して台頭した大手百貨店系からのリゾート事業による参入と羽ぶりの良さはバブル崩壊でなりを潜めたが、コロナ禍ではなくともレントシーキングによる利益の吸い上げは今に始まった事ではなく、規模を縮小させながら現在も続いているのは致し方ないことだろう。

そして移動中の車中による企業側(高橋と黛)の2人の会話は濱口が得意とする独壇場であり才能を認めるが、それ以外は60年代のゴダールを筆頭にしたヌーヴェル・ヴァーグによる焼き直しであり、真新しいさは本作には皆無であった。

しかしそれが悪いとはいっている訳ではなく、世代的に後追いで影響を受けて学んだゴダール、ブレッソンにしても濱口は映像作品よりも評論家の論文や当事者のインタビューを受験勉強のように生真面目に読むことで、「気狂いピエロ」フェルディナンがなぜダイナマイトを顔に巻き付けたのか、どうしてオディールたちはルーブル美術館を走らねければならない論理的な理屈を文脈で探していただろう。然しながら、それに明確な回答が何処にもないことを理解した開き直りで、あのようなラストの持って行き方をしたのならば、日本の映画作家の中では珍しいぐらいに純粋で馬鹿正直な存在なのであろう。

映画作家としてのオリジナリティがないわけではない。不安定な空気感と時間を感じさせない描き方というのは、106分とは思えない映画技術は濱口監督の才能であると認めている。

[付録:最後の解釈について]

あまりこの場面を深掘りするのは、作者の思惑も絡むだろうし意味のないことではあり、これは森の中で起きる寓話のような教訓であり、花と見つめ合う「銃撃された手負いの鹿」と子供なりに介抱しようとした関係は以前から学校の帰り道で良好ではあったが、問題は高橋が大きな声で呼び出してしまったため、鹿がパニックを起こして花に襲いかかる事を危惧して、巧は羽交締めで首を絞めて気絶をさせた。そして瀕死の花を運ぶ巧のカット。そしてオープニングの木々の場面に戻るが、これは一夜明けて目覚めた花(もしくは高橋)が見た仰向けから見える明け方の景色であり、おそらく担架か何かに運び出されたのだろう。

これが登場人物の人格描写に支障をきたさない流れではあるが、普遍的な本能で親が子を守る「parental care」に二重構造を交錯させている。移動中による車中の会話で高橋が独身であることを私たちは知っているが、不器用にみえる巧や臆病な鹿(巧)であっても子を持つ親でなければ理解ができない行動かもしれない。そして作者は敢えて時制を端折らせている。「桜桃の味」のように物語を放棄させて観客へ委ねている。

巧の妙な忘れっぽさが意識的か無意識なのかは分からないが、故意に鹿を花へ襲わせる「子殺し」も鑑賞中は念頭に置いてはいたが、仮に父娘心中であっても北野武氏が金獅子賞を獲った「HANA-BI」の終わりと僅かに似通ってしまうのは、同じヴェネツィア作品でもあり、濱口監督の聡明(あざと)さを感じてしまったので消去法という形をとった。

然しながら物語の真実が相対的で曖昧である点は、代表作として黒澤明「羅生門」も挙げられる。登場人物の食い違う証言や悪と正義を秤にかけてドラマのみに完結をするが、本作は作劇の解釈をネットを介して外側である私たちに議論をさせる方法は時代を意識しているかもしれない。しかし最後に多義性は求めさせてはならず、作家であれば終わりは一義であるのが至極当然ではないだろうか。それが本作の最終評価であり私からのこの上ない願いであることを心から理解して頂きたい。

パンフレットは48ページの正方形の仕様。縦書きで主に製作者、出演者のインタビューで構成されており、表紙と本文に使われている紙に差がみられて手触りに記憶が残る。

そして表紙はシンプルで花(青・EVIL DOES EXIT)と高橋(赤・NOT)が着ているジャンパーの色が英文タイトルの2色とリンクさせており、両者が反駁しあう反対色であった。

[Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下 13:05〜]
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