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密林の慈悲の文字のレビュー・感想・評価

密林の慈悲(2018年製作の映画)
4.6
 久しぶりのキニヤルワンダ。第二次コンゴ紛争最中における、立場の異なる二人の兵士の心理的葛藤を描く。反復強迫か。上映後のトークセッションでも語られていたが、黒澤明の「デルス・ウザーラ」を思い出した。コンラッドの『闇の奥』よろしく、安静を必要としていたのは想像力だった。再び「闇の奥」として現れている。向かい合う者はいない。だから名指されない。顔が見えない。然るに「闇の奥」であり、同時に「闇の奥」でない。DRCが十分にDRC的出ないからこそ、表象され、異化を誘われる。決して「忘却の穴」に落とし込んではいけない。抗って、記憶していかなければならない。1994年のジェノサイドを描いた作品はこれまでもいくつか見てきたが、コンゴ紛争を描いた映画は少ない。少なくとも、日本で見ることはなかなか困難でもある。特にRPF政権下における「物語」に抗って記録し、記憶することは苦労が伴うのかもしれない。でも表象を試み続ける行為によってのみ倫理は開かれるのではないか。
 得もいわれぬ居心地の悪さがあった。私には、「闇の奥」を知覚することはできない。絶対にできない。ただ思惟するのみである。私の意識はただ意識そのものに向かっていたように思う。そこに志向性や思惟されたるものへの意識はあるが希薄であった。思惟されたるものを意識する私の思惟において、思惟されたるもの、すなわち対象は、その思惟に固有のものであったが、しかしその固有性ゆえに対象との差異が生じてしまう。だからこそこの思惟はア・プリオリなものではない、全き別のものに対して開かれているわけだが、未だにそこに彼らはいない。私には還元され得ない。パイドロス?知ることは思い出すことなのだろうか?オデュッセウスか、アブラハムか。
 ただ、少なくとも、この作品を見たことによって私の主体性が基礎付けられたことは認めなければならないだろう。絶対的な他者に対する責務を引き受ける当為が開かれたからである。でもシンポジウムにルワンダないしDRCの人が登壇していなかったこと、作品が取り扱っていた問題について言明を控えていたことには引っかかりを覚える。勿論シンポジウムのテーマと逸れている事は了解しているが。映画の内容が政治的であるために忖度したのであろうか。果たして「闇の奥」で人智は光るのであろうか。
 鈍く甘い灰色。簡単に善悪を二分することはできない。構造的暴力に塗れているから。でも裁判官と同じ轍は踏むまい。霊肉の二分法を棄却しなければならない。理性への意志は理性的な意志ではない。一般市民が最大の被害者である。映画の俳優ではなく、無限に開かれた他者を直観し、把持すること。ナマの事実を観照することこそがただ求められているのではないだろうか。不条理が織り成す圧倒的な悲劇の前には、どのような思想も言葉もまるで意味をなさないのではないかという不安もあるが、しかしそれが言説である限り定位される。新しいファシズムに呑まれることなかれ。
 今年のFESPACOグランプリ作品らしい。昨年ムクウェゲ氏がノーベル平和賞を受賞したことも相まって、DRCの紛争や性暴力に対し世界的に注目が集まっているのだろうか。一日も早い解決を切に願う限りである。
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