まるたけ

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいのまるたけのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

映画の中の人たちと同じ大学生の頃に見ていたら、号泣していたかもしれない。ただ、中年のオヤジになった今の自分には、にがい想いが残った。いい映画かもしれないが、そう断言することができない、したくない何かがあったのだ。

映画の中に、こんな感じのやりとりがある。
「落ち着くところにばかりいたら、打たれ弱くなる(から自分はそうしない)」
「打たれ弱くていいじゃん。打たれ弱い人を打つ方が悪いんだから」
「でも現実はひどいことが起きるのが普通だよ。強くならなきゃいけないんだよ」
「それじゃあ、嫌なことから自分を守るために、(君自身が)嫌なものになっちゃうよ」

嫌なことから自分を守るために、嫌なものになっちゃった人。それはまさに、今の私だ。こういうセリフを突きつけてくるほどに、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」は中年のオヤジにはやさしくない。だから、にがい余韻が残るのは当然と言えば当然のこと。しかし、そう考えてはみたものの、モヤモヤは消えなかった。それで原作を読み、大学時代を思い返したりしながら、一週間ほどこの映画のことを考えていた。

大学時代というのは、自分の中に突然「社会」が流れ込んでくる時期だと思う。地元を離れて一人暮らしを始めた学生であればなおさらのこと。他者との関係をイチからつくり直し、就職というイベントを前に、社会と対峙せざるをえない。だから孤独に晒されたり、自分の存在が揺らいで、不安に襲われたりもする。ただ、この映画では、そういう大学時代特有の事情というものが丁寧に描かれない。個と個の関係性の中でドラマが紡がれていて、そういう個を生み出す環境や背景への言及が少ない。離れて暮らす親の描写がないのが象徴的だと思う。

結果どういうことが起きるかと言えば、七森や麦戸ちゃんたちの切実な葛藤が、社会の問題として相対化されず、個人の内面的な問題に集約されてしまう。でも、彼ら彼女らが「弱い」のは、彼ら彼女らのせいだけではないはずだ。そもそも大学生という不安定な時期を生きているのだし、SNSが普及して人間関係が希薄になった時代、あるいは自己責任論が蔓延して他者に甘えづらくなった時代のせいもあるだろう。でも映画は、そういう風に彼ら彼女らを捉えようとしているようには見えなかった。

今つらい時期を過ごしている若い人は、この映画の中に自分を発見して、苦しいのはわたしだけじゃないんだと慰められるかもしれない。でも、救われることはないと思う。この映画は、つらくてもちゃんと他者と向き合おう、と言っているのであって、つらいのはあなたのせいじゃない、とは言ってくれないのだから。そういう意味で「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」は若者にとっても、やさしい映画ではないのだろう。私の中のモヤモヤの正体は、おそらくそういうことだったのだと思う。
まるたけ

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