校長が「しょうもない、しょうもない」と言いながら、湊に語った「誰でも手に入るものを幸せって言うの」という言葉を考えた。
だとしたら、その幸せをみんな求めているのに、どこでボタンを掛け違えているのだろう。
母親は確かに湊を愛しているのだろうが、明らかにおかしなことがあっても、どうして遠慮してわかった風を装ってしまうのか。
保利先生は、一見異常に見える金魚も、異常ではないという感覚を持っているのに、なぜ子どもたちへの指導は表面的で通り一遍なのか。
うまく社会に適応しているように描かれる周囲の人々は、その攻撃性に対して無自覚に噂話や偏見を垂れ流すのか。
そこに共通するのは、自分にとって「訳のわからないもの」に対する恐れであって、それがすなわち「怪物」なのだろうと思う。だから「人物の誰が怪物なのかといった見方ではなく、自らの中にある怪物を自覚しましょう」という映画なのだろう。
依里と湊の2人も、この「怪物」に囚われていたが、ラストシーンでそこから抜け出したことが暗示されている。
で、どう思ったかなのだが、一回目に劇場で観た時には、様々な人物や出来事のステレオタイプな描かれ方が気になって、とてもモヤモヤが残った。今回の配信での視聴は、そこは気になったが、ちょっとは落ち着いて観られ、羅生門的なアプローチで、全体が破綻なくまとめられていることも確かめられた。
が、やっぱりモヤモヤは残った。
どうして、登場人物の誰もが、相手の話を聞こうとしないのか。自分の中のストーリーに当てはめて、わかった気になったり、相手を屈服させようとしたりするのか。
そりゃさ、障害受容(依里のLDを指してます)ができない親は山ほどいるだろうし、モンスターペアレント対応でガッツリ削られている先生たちも多いだろうし、自分が直接関係ない不幸は、無自覚にエンタメとして消費して記憶にもとどめないことだってたくさんある。
けど、当事者の相手の話を素直に聞くって、そんなに難しいことなんだっけ?…性自認と性的指向についても学校できちんと扱われる時代になってきている中、そこでとどまってしまうのか…と思ってしまった。
言い方が適切かはわからないが、一歩手前で煽られている感じがしてしまうというのが正直なところ。そうなる前に解決できるものを「どう?どう?」とずっと見せられている感じなのだ。
是枝監督、坂元裕二も好きなのにな。なんでかな。