彼女と観に行きました。
数年前なら1人で映画館に観に行っていたけど、最近はあまりこういう映画を観なくなってしまっていたので直後は良くも悪くもシンプルなズレた感想しか思いつかなかった。1日たってやっとすごい映画だと思い始めるようになりました。
〈以下私的なエピソードとネタバレ含む〉
観終わった直後も今もゴッドの死のシーンが忘れられなかった。
〈創造主〉が人間と同じように感情を持つならばその一生もまた孤独なものになるだろう。自由意志は何に従うべきか。
少なくとも自分の目にはゴッドは報われたように映りました。
話は変わるけれども、自分は馬が好きで、人からなんで馬が好きかと聞かれると馬に乗ってどこかの草原を駆け巡りたいからと答えていた。今日友達と話していて思い出した。
よく思い出すと実は親父の影響だった。
いつかモンゴルで馬に乗りたいとよく話していた。
覚えている限り最も早かった馬との出会いは、小学生の頃の、科学博物館の広場での乗馬体験での出来事だった。科学博物館の近くに動物園があったのでそこから出張してきていたのかもしれない。ロータリー状の広場の前で自分と同じ歳くらいの子供たちが親に連れられて列になり順番に馬に乗っていくというもので、馬は同じ一頭だけ。その一頭が一人一人順番に背中に乗せてロータリーを回っていく。
自分の番になり、馬の背中に乗った時、今まで大人しくしていた馬が突然いなないて少し早足になった。
ただそれだけのことで、何かの勘違いかもしれない。でも子供ながらに強烈な体験となって、そしてそれ以来馬に対して特別な感情を抱くようになった。
馬に乗って何にも縛られずに、自由に、草原を駆け巡りたい。
今振り返ると親父はこの特別な思いを自分と共有しようと試みたのかもしれない。一緒に馬に乗って草原を駆け巡りたかったのかもしれない。
だからこの乗馬体験に連れて行ってくれたのかもしれない。
数年前、本当は親父と中国旅行に行く予定だった。西安や内モンゴルにも行くとのことで馬に乗れるかもしれなかった。しかしその直前でケンカして自分1人だけ実家のある福岡から東京に戻ってしまった。結局旅行は両親だけで行った。
人間同士の関係というのはときに、お互い会話を交わすのだけど、実際は四方を絶海に囲まれた灯台からまた遠く彼方の灯台へと呼びかけているようなものにすぎず、お互いその間にどれほど隔たりがあるか気づかないままでいる。
時々コミュニケーションは時間を超える必要がある。とてももどかしいけれども。
そして、結局のところ、自由意志は、その先に向かって、責任を負うことが可能なものとしてはプログラムされていないように思う。
そのようなシステムの中では、愛によって動機づけされる、尊重される、自由意志こそがより良いものだと考えました。
だいぶ話がそれたけれど、稀に見ない凄い映画だった。扇動的で前衛的で挑戦的ないろんなものと距離を置き始めたいとこのごろ思っていたけど観て良かった。
全ての哀れなるものたちへ捧ぐ、慈愛のある映画でした。
彼女と感想を言い合った時に、(最近は人と映画の感想を言い合うこともなくなっていた、しないようにしていた)マークラファロとベラの婚約者が独房みたいな場所で、画面の中で2人だけで会話劇だけでシーンを進めていくところが凄かった、と言ったけどその時はあんまりわかってくれなかったっぽい。
舞台みたことないけどシェイクスピアとかそんなのみたいな迫力があった。
彼女が言ってくれた感想の中にも直後の俺にはピンとこないものが1個や2個くらいはあった
お互い時間が経てばわかるのかな、わからないのかな
ベラがゴッドの元に帰ったシーンはブレードランナーを思い出した。
モノクロの場面は白黒の「野いちご」を思い出した。
全て美しい映画の体験として記憶に残っていた。
やっぱり映画っていいですね。
追記
サントラがずっと同じ音階の繰り返しで何か隠れたメッセージがあるのかも
序盤の白黒から一変して客船のシーンはAIの作った映像のようだった
ウィレムデフォーの俳優としての魅力を改めて感じた。顔なんてルネサンス絵画みたいでそんなことに今まで気づかなかった、喋る英語もよかった
ベラの冒険の中で一番好きなのは、リスボンでギターを弾いて歌う女の人を見つけて音楽の感動を知るところ
調べていると原作はスコットランドの歴史と関係があるようでサントラでもバグパイプが使われていました、もしかすると気になっていたサントラの主題は勇敢なるスコットランド行進曲の変奏なのでは!?!?
今では毎日の仕事の中で弓の毛替えを通して馬毛に触れている。
なんだかんだで馬と縁がある。