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ブラインドネスのotomisanのレビュー・感想・評価

ブラインドネス(2008年製作の映画)
4.4
 何が起ころうと人の習性は変わらないもんだとしたら?
 急に視力がなくなって、それが感染性で拡大的と疑われ、原因も治療法も分からないとなれば、関係機関による患者の扱いは囚人以下まで落ちるのだ。この点、国や人によって差があるだろうが十分うなずける。何しろ世界中目が見えなくなってしまうらしいのだから。しかし、食料も乏しく仕事もなく病気なわけでもない中、収容者の中に他人より優位に立とうと云う者らが出てきたら?何しろ習性なので。
 そういう者は普通に暮らしてても何処にでもいそうだ。たとえ視力が利かず牢に入れられていても、拳銃の威力を笠に着て暴君化、対してその反発から紛争になってと。ここまでが映画の物語だが、本当の問題はその後にやってくる。
 物語の終わりでは視力の回復は突然やってくる。一番最初の患者の日系人にやってくる。これで同じ順番で他の者にも回復が訪れる期待が芽生える。
 さて、誰より優位に立とうとする者は、回復した視力の優位性を存分に発揮する。武器、食料、水源、燃料、いろいろな権力利権の源が無傷手つかずで放置されているのを見逃さないからだ。ついでに以前目が見えていた頃、敵対してた奴が未だ目が見えてないと分かったら何をすべきか明らかだろう。こうして政府も法制も解消した今、世界中が戦国化する。人間が抱える問題はこの通りだが、この物語が示したい事はその傍らでの事である。
 視力がありながら夫に同伴し収容を望んだジュリアンは良くも悪くも注目される。彼女はその力を徹底して人知れず同房者の世話に用いる。盲撃ちしかできない王の銃一丁にも安易に反抗しない。この心の落ち着きと用心深さは誰かが犠牲になるまで揺るがないので歯痒いくらいなのだが、しかしながらその在り方は私たちとさほど異なると思えない。
 収容所が「王族」共と一緒に焼けた時には既に監視すら居らずジュリアンの反撃は無意味とも受け取れる。しかし彼女の在り方に意味があるとすれば、むしろ映画の後、来るべき大混乱の中でこそ発揮されるのではないかと思った。それは物語の終わりで、姿を見せないもう一人の目明き。教会の誰かさんも担う意義である。
 神は人に試練を課すものらしい。この物語は、ジュリアンと彼女と手で繋がった人々にしろ、教会の誰かさんとそこに集った人々にしろ、人間の悪いところが全開になる近い将来も、常と同じく生きよと励まされ、彼らはその前哨戦に応えた。という話なのだ。
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