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悪は存在しないのしののレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
3.7
対話可能性と、それがふとした瞬間に潰えかねない危ういバランスというものを、直線的なドラマではなく、ひたすら映像や会話劇や音楽の接続と切断によって不穏かつスリリングに示すというのが凄まじかった。言ってしまえば、本作が映画であること自体がなんとか作品を繋ぎ止めている感じ。

ファーストカットから語り口が一貫している。なんだこの映像は、と観ていると、突如音楽が切断されてそれが花の視点だと分かり、かと思いきやチェーンソーの音が暴力的に入ってくる。あるカットを眺めていると事後的にその意味が分かり、また予想外のことが起こる。接続と切断が徹底されることが冒頭時点で宣言されている。

実際、この接続と切断はあらゆる場面で繰り返される。子どもが時間停止していると思ったら遊びの最中だったとか、かと思えばシームレスに車の後部の視点に移動するとか、車中での和やかな会話が剣呑になる瞬間があるとか、かと思えば急に笑い出し、その理由がこれまた事後的に分かるとか。枚挙にいとまがない。

この、「ああそういうことかと理解した途端に予想外の出来事が発生する」という演出は、シーン単位だけでなく作品全体の構成レベルでも適用されている。そしてその結果、濱口作品らしいテーマである「対話と断絶の揺らぎ」が実感される作りになっている。テーマ-構成-シーンの入れ子構造なのだ。

まず、序盤は巧を中心に水挽町での生活がやたらじっくりと映される。ここから既に接続と切断の演出は繰り返されており、まだ見た目には何も始まっていないにもかかわらず、不穏な空気が流れている。チェンバロと羽、ピアノ、母親の写真。巧と花の親子関係にもある種の欠落がありそうだ。

やがてグランピング事業の説明会が始まり、高橋の暴力的なマイク音声とともにシーン遷移する。なるほどこの対決が作品の本筋かと思うのだが、しかし対話するうちに「形式」のメッキが剥がれていき、こちらが想定していた二項対立の図式から外れていく。ここは濱口作品の真骨頂だろう。その後すぐ都市側の視点に移り、高橋と薫の2人も「上から下へ流れる」システムに組み込まれているものだと分かる。そして車内の会話劇では、彼らの間でも対話と断絶の揺らぎは発生しうると示されるのだ。この意味で水挽町の人々と彼ら2人は等価となり、対話の兆しが見えるのだが、車内シーンの終わりで走行音が不穏に大きく鳴り響く。

こうしてそれぞれに対話と断絶の揺らぎを抱える人々が合流し、新たな揺らぎの流れを生み出す。たとえば、手土産の酒を拒否されたと思いきや、薪割りの協働が発生する。うどん屋で対話が発生するも、直後にピントのズレた感想を述べてしまう。水汲みが前半と後半で反復されるが、鹿の死骸を発見するという場面もあわせて反復される。融和していくイメージ(ちなみに水汲みの場面でメインテーマが流れるが、このメインテーマ自体、壮大なようで不穏さも感じさせる)と、しかし確実にそこにある断絶のイメージ。

ここで重要になるのが花の存在で、彼女だけは話の本筋(に見えるもの)に終盤までは合流しない。しかし、この子もまた本作における「上から下へ流れる」ものの一部なのだ。なぜなら前述のとおり、彼女と巧の関係性もまた危うい「バランス」を保っていることが示唆されているからだ。

ラストでは、接続と切断を繰り返してバランスを保っていた3つの流れが合流する。芸能事務所が企てた杜撰な計画、どこかで猟師が狙撃した鹿、欠落を抱えたままの親子関係。それは高橋と巧を引き合わせ、手負の鹿を導き、羽(欠落の象徴)を探す花をあの場に呼んでしまった。そうなると、巧があの行動をとった理由は複合要因ということになるだろう。高橋との車内での会話は分かりやすい。その背景には「地方」や「自然」の表層だけを捉える姿勢がある。あるいは鹿のせいにして計画を中止させる意図もあるかもしれない。そしてその背景には、住民が「便利屋」である彼に町の調整役を担わせているという構造がある。

しかし、高橋が抱くような表層的な興味が悪かというと、むしろそれを契機に対象との対話や本質的な理解が生じることもあるわけだし、そもそも彼らはグランピングというまさに「自然を表層的に楽しむ」事業に携わる者として住民と対峙した結果、「馬鹿じゃない」ということを知ったわけで。同じく住民たちに関しても、たとえば巧という人物のことをどれだけ理解していたのだろうか。ここで序盤での巧を取り囲む生活環境の描写を反芻したい。果たしてどれだけの人が、彼と花との関係性をケアしていたのだろうか。

斯様に、表層と本質はグラデーションとして存在している。だからこそ対話と断絶は揺らぐのだ。濱口作品には、表層とその内面は違うかもしれないという前提がある。言っていることと思っていることの違いは誰にも分からない。だから、発話の主体が醸し出すなにか(それはたとえば身振り手振り、表情、抑揚、受けの反応等)を見て、それがその人の「本当」なんじゃないか、と信じることでしか「本当」は立ち現れないのだ。そして、これはよくある「本音と建前」みたいな話とは全く違う。もっと本質的に、コミュニケーションとは言葉以上の情報量をやりとりしているのだ、ということを浮き彫りにする作劇だ。そしてそれが自己修復を生むこともあるし、大きな破綻を生むこともある。直近2作はその揺らぎのなかから立ち現れる「“本当”らしきもの」による救いを描いていたが、今回はそれを不穏なものとして逆説的に体感させ、映画的にもスリリングな方向に舵を切った。冒頭、上から下へ流れる視点で捉えていた森は、ラストで月光と共に別の一面を見せる。とても象徴的な円環だ。

とはいえ、個人的にあのラストは理屈を超えた飛躍というより、むしろ理屈っぽい飛躍だとは感じた。たしかに出来事自体は唐突かもしれないが、「手負の鹿」「羽」などのキーワードは事前に丁寧に説明しているわけだし。相変わらず、ある意味儀式としての棒読みアプローチに付き合わされる感覚もある。

ただ、今回は音楽や編集、攻めた映像の撮り方など、言外の不穏さを作品全体に薄く張っていて、ここが理屈的でない部分を獲得していたとは思う。お得意の会話劇でエンタメ性を付与しつつ、それも「対話と断絶」の構造の中に位置付けていたし、濱口作品のアプローチがより拡張された感があった。

※感想ラジオ
『悪は存在しない』は開始1秒から挑戦的!進化しまくりの濱口作品を紐解く【ネタバレ感想】 https://youtu.be/3Cco430MEI4?si=yWYL2sOaS54rFsGH
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