tntn

異人たちのtntnのネタバレレビュー・内容・結末

異人たち(2023年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

本作における「異人たち」は、あえて言えばアダムの記憶の中にしか存在しない。しかしそうした異人たちは、同時にアダムの手を握りアダムと抱きしめ合うという生を生きている。
シネスコの画面に顔と顔、肉体と肉体を重ねてその身体性を何度も強調しながら、同時にその人達が「パートナー」や「家族」として社会の中に包摂されることも回避している。
悲劇の死を遂げた存在にしてはあまりにも実在感があり、でも単なる家族やモノガミーの制度的肯定をすり抜ける。この意味で、本作は、「異人たち」の存在そのものをクィア化してみせている。
死ぬ運命に象徴されるような、時間の一回性を理解しながらそれに逆行する「異人たち」とというオリジナルのポテンシャルをクィアリーディングするだけでも十分興味深いのに、ラストショットで大林宣彦による「手前から奥に向かって画面が縮小する」という大変独特な演出すらもリメイクされた時、本当にアンドリュー・ヘイは天才だと思った。リメイク映画としての完成度がとても高い。
ありし日の家族に出会うという古典的な物語のパターンが、近年『秘密の森の、その向こう』などのクィア映画で反復されている。興味深いことに、『異人たち』を含む近年のそうした映画群は、かつての「タイムスリップ」映画とは微妙にずれている。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に代表されるように、「タイムスリップ」映画は、時間軸を混乱させるようでいて実は「未来に戻る」という目的、「過去を変えては行けない」という障害などの明瞭な要素で構成された極めて秩序的な物語構造と言える。一方で、『秘密〜』や『異人たち』は、タイムスリップではない形で過去と出会い共存する。そこでは家族制度の解体という主題が描かれているが、同時に解決するベき目的やモチベーションといった規則に支えられた従来の物語パターンそのものも解体されている。(『BTTF』では、家族写真が秩序としての時間を示していたのに対して『異人たち』の家族写真が次々と様相を変えるのは大変象徴的。)こうしたサイクルを何と呼べばいいかよくわからないけど、「クィア映画」というジャンルのうちのサブジャンルとして後の映画研究で同定されるようになるのではないかな。
台詞やFrankie Goes To Hollywoodの楽曲で、エイズ・パニックという圧倒的な時代性を掬い取るのも、菅野優香が言うところの「クィア・シネマの固有性」を確保していると思った。
父親と最初に「再会」する場面は、オリジナルでは浅草演芸場、今作では野原。二つの場所に共通点なんて全くないのだけれど、それこそが山田太一とアンドリュー・ヘイがそれぞれの映画に込めたそれぞれのパーソナルな思いを示しているようで感動する。
tntn

tntn