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臨場 劇場版のodyssのレビュー・感想・評価

臨場 劇場版(2012年製作の映画)
2.5
【重いテーマとぬるいラスト】

TV版は見てません。この映画版が初見。

テーマの重さに比較して、ラストがぬるすぎますね。

本作の最も重要なテーマは刑法39条です。心神耗弱者(つまり精神異常者)はどんなに重い罪を犯しても罰されないという法律です。この法律はずいぶん以前から問題にされてきました。(例えば『刑法三九条は削除せよ! 是か非か』洋泉社新書、なんかが出ています。)

この法律の問題は2つあります。まず、責任能力という法的概念です。ふつうの人間が殺人を犯すと、責任能力があるのに殺人を犯したからという理由で罪に問われます。それは、普通の判断能力があれば殺人は犯してはならないということが分かるはずだ、なのに殺人を犯してしまった、だから罰しなくてはならない、だけど精神異常者はそういう判断ができない、だから罰しないという論理です。

しかし考えてみれば、判断能力があるからこそ殺人を犯したくなる、ということだってあるはずです。例えばあくどい高利貸しが大もうけをしている陰で、やむを得ない借金で苦しむ者が多く、自殺者まで出ているとします。この場合、高利貸しを殺したいと思うのは判断能力がある人間です。精神異常者にはそんな判断能力はありません。高利貸しが法律に従って金貸しを行っている限り、彼の所業は罰されることがない。だけど法律上はそうであっても被害者が出ている以上道義的な罪はある、という考え方から高利貸しを殺す人もいるかもしれない。この場合、殺人者は法律に従って罰されますが、世間はむしろ彼に喝采を送るでしょう。

このように、法律の論理と世間の論理とはしばしばズレているのです。

また、殺された人間の家族や友人からすれば、殺人者が健常者であろうが精神異常者であろうが、殺されたという衝撃や悲しみは同じことです。いや、犯人が健常者なら罰せられるのに、精神異常者だと無罪というのなら、むしろ犯人が精神異常者だったときのほうが精神的被害は大きい。犯人が健常者なら「しかるべき罰を受けたよ」と墓前で報告することもできるのに、精神異常者だと無罪のままだからです。

問題のもう1つは、精神障害が肉体の病気と同じように客観的に診断できるのか、治療が可能なのか、ということです。肉体の病気なら、診断が医者によって大きく異なることは稀です。治療の結果治ったかどうかの判断も同じでしょう。しかし精神障害の場合、検査をする医師によりその所見が大きく異なることは往々にしてあります。精神障害で入院していた患者が、治ったとされて退院したとたん、また罪を犯すという場合もあります。

具体的には、宮崎勤事件などその良い例でしょう。そして、宮崎勤は結局死刑となりました。推測ですが、幼女4人を殺したという彼の場合、世論からしても死刑を求める雰囲気が強く、仮に精神障害が認められて刑法39条により無罪となったらマスコミなどから猛烈な批判が起こり、その結果刑法39条の見直しにまで行きかねないという司法や検察サイドの判断もあったのではないでしょうか。

また刑法39条には、殺人者が罰を逃れるために精神障害を装うという可能性がつきまといます。ハリウッドでも以前、リチャード・ギア主演でそうした映画が作られました。

さて、この『劇場版 臨場』では刑法39条だけでなく、検察官の犯罪ももう1つ重要なテーマとなっています。これまた、先ごろ実際に起こった事件です。

以上のような重いテーマを2つ抱えた本作は、果たしてテーマにふさわしい出来栄えとなったでしょうか。推理物としてはそれなりによくできているようでしたが、ラストのぬるさが、結局はテーマの重さに拮抗し得なかった製作陣のダメさ加減を示していたのではないかと思いました。

この映画では結局、裁き得えぬ悪がそのまま生き延びます。たしかに現行の法律では彼らを裁くことはできない。しかし裁くことができないというその不条理が犯罪を生む、というのが本作の筋書き展開であるはずです。

その不条理に、主人公の内野聖陽は歯軋りしているでしょうか。驚くべきことに、逆なのです。彼は、現行の法律の不条理を乗り越えようとした人間に説教をかましている。つまり、法律が裁き得ない悪を事実上放置しているのです。これは、作中で内野が表現しようとしているイメージと正反対のものだ、ということに製作陣は気づいているでしょうか。

作中の内野は、型破りの不良的なイメージを担っています。一見すると管理社会の最たるものである検察の形式主義や権威主義を打ち破ろうとしているかに見える。ところが最後で、彼は法律遵守、それを乗り越えることを拒否しています。検察の人間だから当たり前なのかもしれない。しかし、それは作品全体が扱ったテーマ、つまり現行の法律で裁き得ない悪人をどうするかというテーマを放置するものでしかない。要するに、主役である内野が演じる検察官は体制べったりの「いい子」なのであって、型破り的な外見は見せかけに過ぎないということが最後で分かってしまうのです。これが作品全体を台無しにしているということに、製作陣はおそらく気づいていません。

法律が裁き得ない悪をどうするか。ミステリーではしばしばそれが問題になります。
有名な例では、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』やヴァン・ダインの『僧正殺人事件』がそうです。この映画を製作した人たちは、そうした先行例を知らなかったのでしょうか。
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