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四畳半物語 娼婦しののニューランドのレビュー・感想・評価

四畳半物語 娼婦しの(1966年製作の映画)
3.9
脚本家としては時折目にし気に留めない事もなかったが、映画演出家としての成澤が一級クラスと知らされて、そう何年も経ってなくて、それ以前に観た監督作もあったが、初めて凄い手腕·それも奥ゆかしいタイプの、と分かったのは、同じヴェーラでだったろうか、この傑作と遭遇してからだ。やはり、神代辰巳版より遥かに優れている。勿論バジェットや製作期間が違うといえばそれまでだが、気負いはあるにしてもそういったものを抑え続ける意志·節度·正確さの違いか。活躍期間は完全に入り違いになったが、神代と成澤、わりと同世代に近いと思う。
カットを割らない中での、視界はかなり隠すものあれどタイミング·体技本物の階段落ちや、物干場の手摺が陽が昇るにつれ照返しを示してる、等の映画技法が前面に焼き付くことはない。人物らも、煙草片手に冷ややかに対処の待ち合いの女将以外は、皆·「素人」で「うぶ」な面を残し、「金本位·全ての決定」「無い筈の抑えられぬ嫉妬」「脅し」「互いの為·諦め·会わぬ事」「お前のせい·落ちぶれ」「堅気に協力」等の、律義·小心に縛られ·動かされ、長回しはある面舞台の段取り芝居のようで、音や小物には今の流れを中断するくせに、近くに来ている人間は目に入る筈なのに·当面近場の芝居にある区切りが付かないと、すぐにはその存在に気づかない。足元のフォローや人の動きでの寄りサイズ生まれはあれど、長い決定的寄り(フォロー)のカットは事件のかたが着いての放心ヒロインの終盤までなく、洋風に聞こえる事もある軽快さも持つ音楽や、白いスモーク炊いたり軟らかいトーンで丁寧なセットや背景図の威力を寧ろ隠し、あくまで表面的描写でその人間や関係の奥深さ·歴史·頑な意地等に立ち入ることはなく、可笑しく哀れで健気な人間らを、誇張ばかりか説得力も削って、描いてく。多くワンシーン=ワンカットの長回しは、カメラが気づかれず滑らかにじつはかなり巧妙長く複雑に動いてたり(フォローし·回り·上がり·階下へ階段降りを斜めに沿い·退いて顔CU迄寄る、自然体も息長く美的·効果的は、優に溝口ベストワークに匹敵する)、カメラは固定時間長く人らが手前アップまで前後左右にふつうに動いての似た効果(背めの退きままのニュアンス伝わりも)を生んだりしてて、念押ししてくる力感は排除している。これが映画であり、表現であり、余分はいい、後は画面と客が交感して、普通な呼吸を思いだし、生き始める事だ。いつも思うが、製作の主義·主張を超えて、こんなに純情な映画群があるだろうか。師匠溝口ですらどこか鎧を纏ってるに、また、剥き出しでもなくこの作家の映画の羽織り方·それを着飾るのでなく、時代や世界の引き受けと反映にしてるは、純に·気づかない人間の愛すべき飾りない原型に立ち会うようで、いつも目を洗われる。
窓枠ごしの図や、細め堀の囲み、鏡や井戸跡、華奢な渡り板や縁側、小さな四畳半等への出入り。初終の明治初めの話を掘り起こすに·昭和初期だっけ·味ある廃屋の買上とその貼られた紙のもたらす話のまず始めの紹介·という力の抜き方、半端な悪党らが自分を特定できぬ揺らぎが·悪意ない素直な人間に却って揺らされる·煮えきれぬも愛したい話の展開。
置屋とは直結してない、素人の家からの通いが主の待合(若い客の男を逆に買う、勝手知ったる闖入者も)で、女将と共に客を招き連れ来る車夫が仕切り·仲介料をとっている上野近くで、たまたまの·旗本からスリに身を落としてる客に距離を探りながら岡惚れしてく、男一般に呆れながらも食扶持の為と過去の途を外れてまで助けてくれた縁で、車夫の実質上の妻と成ってる女が、車夫が屈折悶々もあり、家事手伝いから娼婦に上がった女に鞍替えも「熨斗を付けて」と動揺なくも、車夫はより深くたぎる復讐·破壊の気持ちからの、彼女を朝鮮に送り切り離す迄推し進める。スリが堅気の途に進まんとしてる所を脅し·スリを説得して気持ちの伝えを偽らせ、本当に止まれず実行せんとするも、その詰めでスリに刺され死ぬ。柔らかく·無気力にも見えて、スリの恩赦出所を気長に待つ女。
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