19歳の頃に好きだった女の子が、この映画を好きだと言ったから僕も観に行った。けれど、彼女を思う気持ちがあまりにも鮮やか過ぎて、この映画の空の青さがよく分からなかった。
つまりは、そういうことだろうと思う。
おそらく、映画のなかのギルバート(ジョニー・デップ)にも、この青さが見えていない。恋愛感情として、身を焦がすように誰かを想うより以前に、ある種の切実さを通してしか、世界それ自身が姿を現すことはなかったように。
もしかすると、彼女に恋をしていたのではなく、彼女を想うことで、世界のもつ切実さから抜け出したかったのかもしれない。いつでも鈍く切りつけてくるような世界への思いを。だからこそ、彼女にとっての僕は、どのような意味においてもふさわしい相手ではなかった。
*
田舎町。家族へのしがらみ。
それは優しさからというよりも、目の前に広がる空の美しさを信じられず、少しずつ虚ろになっていく自分への言い訳をしている青年。原題『What's Eating Gilbert Grape』(ギルバート・グレイプは何に苛立っているのか)に込められているものは、そうした袋小路であり、青年期に関わらず、いつでも僕たちにやってくる状況なのかもしれない。
いつでも空は青いにも関わらず。
そのため、トレーラーの故障で田舎町に留まることになったベッキーに「自分の望みは?」と尋ねられても「いい人になりたい」としか彼は答えられない。
そんな彼の呪縛を解いたのが、呪いをかけていた母親からの言葉だった点に、ラッセ・ハルストレム作品の祝福と呪いのアナグラム性がよく表れている。おそらくは母親としての罪悪感から、それまでアーニー(当時19歳のレオナルド・ディカプリオ)を「私の太陽」と呼び、どこかギルバートを疎(うと)んじていたように見えた彼女は言う。
Momma:
You're my knight in shimmering armor. Did you know that?
お前はきらめく甲冑を着たわたしの王子様だよ
Gilbert:
I think you mean shining.
輝いているだろ
※太陽のアーニーを守るため、反射して輝く甲冑にすぎないという意味か。
Momma:
No shimmering. You shimmer, and you glow.
違う、きらめきよ。お前がきらめいて、光り輝いている
親(親的なものと言い換えてもいい)との葛藤を経験していない人間は、一人もいないはずであり(不在であった場合にはその不在感も含めて)、ラスト近くでその遺体を家ごと火葬するシーンに体が震えなかったなら、おそらく映画体験としては嘘になる。
アンドレイ・タルコフスキー最後の作品『サクリファイス』(1986年)とはまた異なった意味で、素晴らしく暗喩に満ちていたように思う。あの家は、正しく焼かれなければならなかった。ときとして、僕たちは間違えたものを焼こうとしてしまうからこそ。
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この物語を通してギルバートとアーニーが見上げた空は、そのまま僕が見上げた空でもあった。当時は内的に広がっていたからこそ、その鮮やかさが分からず、いっぽう今は、それを受けとめるには年齢を重ねすぎていることから、乖離してしまっている空の青さ。
それでも残された可能性のうち、手にすることのできるものを手にしながら、どこかへ向かっていくしかない。ベッキーが現れることはなく、アーニーも失われていたとしても。
何のために?
そのことには答えようのない、無目的性のうちにしか、たぶん生の本質や道筋は示されない。「いい人になりたい」としか答えられない彼のように。それでも。