takaori

ひろしまのtakaoriのレビュー・感想・評価

ひろしま(1953年製作の映画)
4.0
2023年241本目

実際の被爆者を含む8万人のエキストラが参加したという、原爆投下直後のシーン、そしてラストの行進のシーンは圧巻。原爆がもたらした地獄絵図は、一度見れば忘れられない。とは言え、これは映画なので、まだ描写はマイルドである。実際はもっと恐ろしい光景であったに違いない。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」という原爆慰霊碑の言葉が映画に登場するが、「過ち」とは一体何のことなのかは、常に忘れないよう意識する必要がある。本作は広島原爆の悲劇を鮮やかに描き出した重要な作品ではあるが、少なくとも日本人にとって、原爆被害は「過ちの結果」であって過ちそのものではない。無謀な侵略戦争を起こし、敗戦が濃厚となってからも「国体」などと言いながら、空虚なメンツや自己の保身にばかり走った軍人や政治家たちの愚かさ。映画でもそれは描かれている。先の戦争について、日本人は空襲と原爆ばかりイメージしがちだが、日本がアメリカから空爆を受けたのはほぼ1945年の1年足らずの間であり、実はそれまでは市井の日本人たちは平時とさほど変わらない暮らしをしていた。むしろ、そこに至るまで、日本は一貫して「加害者」の立場であり、アジアの国々の人々の暮らしを破壊し続けたのである。負けが濃厚となった時点で、仮に無謀な戦争を続けずに速やかに敗戦処理へと移っていれば、原爆投下もなかったし、戦死者の大半も死なずにすんだ。事実、広島・長崎と二度の原爆を受けてなお、軍部は無条件降伏を決めることはなく、ソ連の侵攻があってようやくポツダム宣言の受諾に至った。つまり、ことによると降伏はさらに遅れ、3発目の原爆が落とされることもありえたわけである。内へ向かっても外へ向かっても、人の命をとことん軽んじる国であったことこそが「過ち」であり、原爆はいわばそのツケを払わされた出来事である。その犠牲者が、責任者たる政治家や軍人ではなく、何の罪もない子どもたちを含んでいたことこそが悲劇である。だから、「私たちは酷い目にあった」と振り返るばかりではなく、それこそ映画の最後に遠藤が叫ぶように、「戦争の道具なんか作りたくない、戦争には行きたくない、憎くもない人を殺したくない」という思いを日本人みなが強く持たなければならない。
映画の冒頭に、「日本教職員組合」のクレジットがある。昔、子どものころは、「教え子を戦場に送らない」という日教組のスローガンをバカにして、鼻で笑っていたものだ。だが大人になって少しは賢くなり、また日本がこれだけ戦争の準備ばかりを進める世の中になってみると、教師たちが何を恐れ、何を伝えようとしていたのか、その一端が分かる気がする。「日教組を潰すために火の玉になる」と豪語した保守派の政治家もいたが、なぜ彼らがそこまで教職員組合を敵視したのかも見えてくる。「過ち」の歴史をなかったことにし、再び戦争の災禍をもたらそうとする愚か者たちを止める責任は、市民ひとりひとりにある。
takaori

takaori