寝耳に猫800

地に堕ちた愛の寝耳に猫800のレビュー・感想・評価

地に堕ちた愛(1984年製作の映画)
-
二人の舞台女優が劇作家の屋敷に招かれて泊まり込みで稽古を行い、週末にその屋敷を舞台として演劇を行うまでの一週間のお話

居住空間において演じる行為を繰り返すことで、暮らすこと、つまり食べることや寝ることや人を愛することと演じることが混じり合っていく時間が映っている、というかそもそも、人が演じているかそうでないかなど、他人どころか本人でさえどのように判断ができるのだろうという当たり前の問いをずっと突きつけられる

これまた当然のことだが、我々は役者でなくとも日々何かのフリをすることはある、劇中では役を演じることだけでなく、酔っ払って我を忘れる(フリをする)こと、嘘をつくこと(盲目のフリをすること)、睡魔に誘われてまどろんだり眠りに落ちて夢を見たりすること、この男ではなく他の男が好きなのではないかと思い込むこと、自分は幸せだと自らに言い聞かせるが如く部屋中を飛び回ること(不幸だと思い込みたいが如く誰かにしなだれかかること)、奇術に騙されて幻を見ることなど多くの「フリ」や「思い込み」が映し出される、こうやって羅列していくと最早ほとんどの時間、人は「正気」ではない

劇中のほとんどのシーンが屋敷の中で展開されるが、時折外に出るシーン(地下鉄のホームやバー外観など)があると急にこちらが「正気」に戻ったような感覚がある(急にスクリーン内の映像と音声の抜けが良くなる)
「二人の女が大きな屋敷に誘われ、そこでファンタジー的な(亡霊的な)現象に遭遇する(その現象自体を彼女たちが体現する)」という点は、同じくジャック・リヴェット監督の『セリーヌとジュリーは舟でゆく』とも共通しているが、リヴェット的魔法は大きな屋敷という閉鎖空間で最も強く機能するのだと再確認した印象、なんとなく、役者が動くときにカメラがパンした先に抜けているドア、そしてそのドアをフレームのようにして切り取られた隣の部屋にあるように思うのだが、それがまだうまく言語化できない

この映画には奇妙な時間感覚がある、劇中の登場人物も「この屋敷は時間が狂っている」とかなんとか言っていたと思うが、屋敷の中の時間感覚に引きずられるように映画を観ているこちらも感覚が狂う(そもそも3時間が長いけども)、劇中は一週間の話だがもっともっと長い時間が経過しているように感じる、そして時間を経るごとに役者たちは演じている時間以外が芝居がかっていき、演じている時間が素に近いように「見える」(まあ、観客にとってはどちらも「演じている」人を見ているわけだが)
そういう入れ子構造、というかメタフィクション的なものは現代でもまだまだ流行ってますね、ちなみに本作で最もメタフィクション的な香りを感じた演出は、人物が会話をしている遠くで執事が打っているタイプライターの音が鳴っているところ、結構頻繁にカタカタ言ってた、あの執事はなんなんすかね、主人に従事しているようでこのお話全体の調整役を担っていて、この執事とマジシャンのポール二人は、他の人たちより一段メタ的な立ち位置にいた気がする

どうしてこんなにごちゃごちゃした面白い脚本が書けるんだと思っていたが、脚本クレジットがリヴェットの他に3人いて納得、こういうの複数人いないと書けないっすよね多分

追伸 :この当時のフランスの地下鉄、駅での停車時にまだ全然スピード出てるタイミングでドアが開いている、地下鉄のホームドアに慣れた2024年の自分としては肝が冷える
追伸2:タバコの手品、こんなにリアクションしてもらえない手品を見たことは未だかつてない
追伸3:憔悴している怪我人の額の傷にアカチンでおひさま書いて励ますの絶対笑うだろ、そして怪我人の方もそれですっかり元気になんなや
追伸4:ラスト前のビンタが微妙に往復になってるのも笑う、往復ビンタを見るたび(滅多に見る機会ないけど)「怒ってる時って人は普通腕を往復させないだろ」とか思ってしまうんだよな
追伸5:客を家に招いて演劇を披露するシーン、日本人なら演劇と言われずにこういうのに招かれても途中で帰るとかできないよなぁと思うなどした