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雨の午後の降霊祭のStroszekのネタバレレビュー・内容・結末

雨の午後の降霊祭(1964年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

原題"Seance on a Wet Afternoon"(1964)。マーク・マクシェーンの同名小説を出版から3年後に翻案映画化したもの。

イングランド映画。曇りの日と小雨の日が多いイングランドのジメジメした雰囲気が、とてもよく表れている。シトシトと降る雨が劇中ずっと続くのかと思ったら、雨が降るのは最初の冒頭のシーンだけだった。家が軋む音や人が歩き回る足音もすべて拾うような優れた音響、モノクロのピンと張り詰めた静謐な画面で犯人の狂気を描いた、サスペンスフルな犯罪映画である。

結末を含め、原作からはだいぶ変更されている。

原作は既読だが細部に記憶違いがあるかもしれない。

マクシェーンの原作においては、マイラ・サヴェッジ夫人は心霊協会のメンバーに認められることを第一の目標とする承認欲求モンスターのように描かれていた。本翻案では、アーサーという息子の死に取り憑かれた、子どもを失った母親の狂気が描かれている。

週一回の降霊会を開くマイラという女性が、富豪の娘を誘拐して彼女と身代金を自分が見つけた体にすることで、霊媒としての名声を得ようとする。夫のビルはそれに従う。

霊媒がトランス状態に陥るのにはかなり時間がかかることを、降霊会が始まってからその最中にかけてのロウソクの長さの変化により示していて興味深い。

本翻案では、マイラの頭にあるのはアーサーという夭逝した息子のことである。

序盤でマイラが「他人の不幸で自分の幸せは買えない」とアーサーが言ったという言葉を引用するのだが、これからマイラとビルがやろうとしていることはまさに「他人の不幸で自分の幸せを買う」行為である。

マイラがアーサーのことを"he"と言及するのに対し、誘拐されたアマンダについては"it"と言っている。人間扱いしていないようで恐ろしい。

アマンダが学校の親友キャサリーンをマイラに紹介するときに「新興宗教の子なの」と言っていたが、元の音声では"Christian Science"と言っていた。そんなに昔からあの宗教はあったのかと思った。

原作と翻案で異なるのは、ビルの人物造形である。原作ではビルはマイラの言いなりになる意志薄弱な男として描かれていたが、映画では息子を亡くして精神的ショックを受けた妻を労り、妻の望み通りに振る舞っているように見える。

原作ではアマンダの母親が降霊会に参加している最中に、ビルがアマンダを軟禁する隣の部屋で彼女を黙らせようとして力余って殺害するという展開である。しかし映画では、ビルが部屋から出てきたアマンダに顔を見られたことからマイラが殺害を指示したことになっている。殺害方法も絞殺ではなく薬殺である。

アマンダを殺害しない点も原作とは異なる。

最後の降霊会の演出も異なる。原作では、マイラがほんとうにアマンダの霊を降ろして、その証言が二人が犯人であることを示して逮捕される、という展開である。

映画では、マイラがマイラのままでトランス状態に陥り、アーサーの近くに少女を送るために殺したと、刑事の目前で動機の自白をしてしまう結末だ。

承認欲求の強い霊媒の物語から、息子を亡くした母親の狂気を描いた物語へと、翻案の過程で変化している。

ビルを演じたリチャード・アッテンボローは製作者も務めている。原作で少女が無惨に殺される展開に我慢がならなかったのか、物語の展開と意味を大幅に変化させている(こういう展開にしないと映画化できなかったのかもしれないが)。

1999年の同作の翻案である黒沢清監督の『降霊』は、少女が結構早めに亡くなり、音声技師と霊媒の妻の生活を脅かす展開なので、誘拐物から幽霊物に姿を変えている。

翻案というのは実に興味深い行為である。
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