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飛べ!フェニックスのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

飛べ!フェニックス(1965年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

ロバート・アルドリッチ監督作品で個人的に最も好きな作品。
もっと評価されるべきだと思う。

極限状況のサバイバルを描く映画は、人間性が剥き出しとなるのが面白い。
それが多人数であり、窮地を乗り越えなくてはならぬ運命共同体ともなれば、家族や職場のような集団生活の縮図となる。
その場にいたら、自分ならどうするのか?どうすべきなのか?
自分の人間性を問われている気がするのだ。

冒頭からピンチの連続で物語に引き込まれる。
砂漠の真ん中に飛行機が墜落する。
突然、日常から非日常へ放り出される。
泣き言など言っている暇はない。
水が不足し、救助がくる見込みもない。
どうやって生き残るか?
生きていくための方法論がぶつかり合う。
男たちの意地がぶつかり合う。

登場するのはオッサンばかり。
実はそこがイイ。

この映画を酷評するレビューには「男ばかりでむさ苦しい」とか「画面に華がない」とか「展開が地味」というモノがあるのだが、私は反論したい。

砂漠という過酷なサバイバルの場に女性が登場すれば、「守らなくてはならない存在」として男は気を使う。
心の潤いであろうヒロインを巡る恋の鞘当など有れば「助かってからにしろ」と言いたくなる。

男ばかりのサバイバルにジェンダーを気にして女性を入れると、論点がブレるのだ。

それは黒人や黄色人種を入れても同じこと。人種差別問題に論点がブレてしまう。

若く活力に溢れる男がいないのも同じ理由だ。
サバイバルというサスペンスにカッコつけたヒーローが登場すれば「コイツが活躍するだろう」と興味が半減する。

「平凡な人間たちが、如何にして生き残るか?」そこが重要な論点なのだ。

体力のない中年男性ばかりという状況がサスペンスを生む。
体力がない代わりに、彼らは経験から来る知恵を出し合って、何とか生き残ろうとするのだ。

シンプルで骨太な内容は、娯楽映画の巨匠アルドリッチ節炸裂といったところ。

限られた空間で限定された登場人物がどう行動するか?
場所は不時着した砂漠だが、まるで舞台劇のような役者の演技が中心となる。

映画好きならば「良く集めたな」と感心する豪華な「オッサン」オールキャスト。

「アメリカの良心」と言われたジェームズ・スチュワート。
映画監督しても有名なリチャード・アッテンボロー。
後に「ネットワーク」でアカデミー主演男優賞を受賞したイギリス出身のピーター・フィンチ。
「シベールの日曜日」などドイツを代表する俳優ハーディー・クリューガー。
「マーティ」でアカデミー主演男優賞を受賞しているアーネスト・ボーグナイン。
後に「暴力脱獄」でアカデミー助演演男優賞のジョージ・ケネディ。

…錚々たるキャストである。
これだけ濃いメンツなら、そりゃ飛行機も落ちる(笑)

しかし、先述したように美形やヒーロー役に適した俳優がいない。
普通の人々の人間性を名優たちが演じる。
その演技が、状況のリアリティと物語の説得力を生む。

砂漠でのサバイバルの選択肢は「助けを待つ」か「助けを求めに行く」しかなかった。
そこにドイツ人技師が「飛行機を作る」という意外な選択肢を提案する。

生き残った乗員たちが飛行機を改造して生還を目指す。
絶望的な状況で、壊れた飛行機から新しく飛行機を作りなおすという希望が団結を生む。
作業の細かい描写も手伝って「本当に可能かもしれない」と思う。
見ているこちらも応援したくなる。

その一方で困難を前にすれば、人間は弱さが出る。様々な衝突を招く。

機長のジェームズ・スチュワートとドイツ人技師ハーディ・クリューガーのプライドのぶつかり合いがたまらない。

どっちが正しいとは割り切れない、終わりの無い正論の衝突の数々。
墜落前と後で人間関係や主導権が逆転するのが面白い。

死んだ仲間の墓が不吉な運命を感じさせる中、機体改造作業の重労働。
水も疲労も限界に近づく。
果たして彼らは本当に砂漠から脱出に成功するのか?
真綿で首を絞められるという表現が似合う、ジワジワとしたサスペンスが続く。

ドイツ人技師の本当の正体が、ラストにさり気なく発覚したときには、唖然としてしまう。
いかにも飛行機設計やエンジニアのように理屈を並べていたが、実は模型飛行機のデザイナーであり、本物は一度も設計したことがないとは!

機体は本当に飛ぶのか?と、またもサスペンスが加わる。

エンジン点火カートリッジ、残り5本!
減っていくカートリッジをカウントする、指の出し方がイイ。
ハラハラする実に細かい演出だ。

フェニックス号が飛び立つ瞬間の男達のあの喜びの表情!
苦労が報われた!と身体全体で喜びを表す解放感がたまらない。
どこまでも暑苦しい男達だった。
その暑苦しさが、解放感とカタルシスとなる。

1つの目的に向う者達、何か目的を持つことは素晴らしい、とこの映画は物語っている。

本当に正しい人なんていない。
不要な人もいない。
皆でとことんぶつかりあって、最善の方法を見つけて前に進んでいく。

その場にいたら、自分ならどうするのか?どうすべきなのか?
私には大したリーダーシップも高い知能や体力もない。
多分リチャード・アッテンボローの演じた副機長のように、意見の違う人間同士を仲違いせぬよう取り持つのが精一杯だろう。

この作品の運命共同体の男たちは、同じく運命共同体である家族や職場のような集団の比喩なのだ。

アカデミー賞などの映画賞とは無縁だが、ロバート・アルドリッチ監督の映画は、娯楽作品としてどれもレベルが高い。
この監督の描くテーマは実にシンプル。「男と男の闘い」だ。
(「女と女の闘い」もあるが。)
いつも、どの作品でも敵と味方、善と悪の両方を公平に描く。
どちらの面も人間の一部なのだと。

しかし、この映画は「みんな助かった!」という爽快さだけでは終わらない。
そこがアルドリッチ監督らしい。

結果として、努力した人間だけでなく、怪我をしたと嘘をついて、助けを呼びに行く上官の命令を拒否する軍曹のような卑怯で臆病な人間も生き残る。

実に皮肉でリアルな結末だ。
極限に追い込まれた人間の強さだけでなく、醜さをも綺麗ごとで済まさずに、ちゃんと描いているところはさすがだなと思う。
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