ガリガリ亭カリカリ

マルタのやさしい刺繍のガリガリ亭カリカリのレビュー・感想・評価

マルタのやさしい刺繍(2006年製作の映画)
4.2
ショーウィンドウに飾られたランジェリーを眺めるおばあちゃんたちの画が力強すぎる。ランジェリーとおばあちゃんたちの切り返しに加えて、反射を利用した同一ショットが対比の面白さを起こしている。

予想を超えて悪役キャラが最低野郎すぎて、保守的な村の男尊女卑と排斥主義を体現していた。しかも、権力で村を牛耳ろうと野心する政治家(政治に夢中で農場の仕事をサボっている)と、主人公マルタの息子で村の牧師(ちゃっかり不倫している)という二人のキャラクターがマルタの夢の邪魔をしまくる。
両者は「マルタがやっていることは伝統を汚す利己的な行動だ」と主張し、村社会という集団における暗部が見え隠れする。この二人のクズ野郎が観客の感情を逆撫でするようなクズ行動・クズ言動でマルタを詰めていく。が、肝心のマルタは中々心が折れない様子で、「バカにしやがって」とちょっとムカッとするくらいで、そのスルースキル、余裕こそが爽快な印象をもたらす。

息子の年齢の男たちは、保守的な思考でギャアギャアと情緒不安定にわめき散らかすが、老婆マルタは常に「ほなリベンジしたるわ」と達観しており、彼らの言動や行動それ自体には決して屈しることがない。同じ土俵に上がってたまるかという抵抗があり、争いに応えるのではなく、夢の実現にひたむきに進み続ける自己実現こそが最強のアゲインストであることを高らかに表明している。

中盤で主要キャラクターの一人の死が描かれるが、この牧歌的でおだやかな作風と相反する強烈な死の描写の瞬間に、油断していた観客は驚嘆することになる。アップルパイがオーブンの中で真っ黒に焦げていて、煙が充満している部屋という記号だけで、その死を予感させる。しばらくして、死そのものへとカメラを向けたときの静かなる絶望感がおそろしい。この死に関しては心臓発作として処理されるものの、観客の目には明らかに、悪役の言動が起因した死であることが明白で、当該キャラクターは言葉によって"殺された"と実感せざるを得ない。それにも関わらず、やはりマルタは、その悪役を断罪しようとはしない。映画自体が、勧善懲悪から巻き起こる争いを回避しようと駆動していく。マルタにとって、馬鹿な輩と争っているほど人生はもう長くなく、尊いものなのだ。

肝心の刺繍に関するショットがあまりにも少なく、その刺繍それ自体の作業量や丹念さが描写されていないため、悪役が施す嫌がらせが若干記号化している。ここは本来であれば、刺繍が如何に大変な作業で、且つ想いが込められているかを丹精に描写さればするほど(刺繍の経験に乏しい観客に対してもエクスキューズする意味でも)、障壁がもたらすアクシデントの「許すまじ感」は増大するはずだ。
けれども、前述したように、この映画はそういったカタルシスを目的としている作品ではない。そんな分かりやすいクリシェのような作劇でなくとも、ただおばあちゃんが自己実現して、それが多くの人に受け入れられたという現象を映すだけで、十二分にスカッとする。恐らく、作劇よりもおばあちゃんの方が強いことが証明されている。

老婆が黙々と刺繍をしている姿をカメラで捉えているだけで存分にフォトジェニックであって、それも観たかった。でも、これは批判ではない。

冒頭、暗い部屋でひとり食事をしようとするマルタ。寂しそうな表情、視線の先には今は亡き夫の席、その夫の名前が刻まれたナプキンクリップ。対して、ラストでは晴天の青空の下、友人たちに囲まれ、まばゆい光に包まれながら食事をしているマルタ。もちろん、その表情には笑顔が溢れている。そしてその傍らには、一本の大きな木が佇んでいる。それがまるで、マルタの亡き夫のように見えたとき、この映画を観て良かったと心底感じたのだった。