ヘクトール

シシリーの黒い霧のヘクトールのレビュー・感想・評価

シシリーの黒い霧(1962年製作の映画)
3.4
主人公の不在、主要人物の不在を、ドキュメント調の、記録映画調のカメラワークで強く意識させられる作品。
俯瞰で「多くの人々が与えられた各々の役を演じている」、「もしくは多くの人々がただそこにいる」という場面を映しているのが今の映画にない映像表現のやり方で、これについては色々と考えるべきところがあるのでは?と思う。
何を撮るべきで、何を撮るべきでないか、みたいな映画論は世の中に幾つも転がっていそうなものだけど、何が有要で何が不要かなんてことを決まった基準でしか考えられないと同じようなものしか出来上がらない。それが多くの視聴者を手っ取り早く満足させるものだったとしても、そのようにメソッド化された芸術的領域の諸芸に関しては、断固としてNOと言いたい。主要な出演者の表情のアップとそれから取る行動を、明確に、わかりやすく写しとるカメラは、これだけで物語を語り得る。ここでは莫大な予算のかかった巨大なセットも、有り様の大自然も、巨大なスケールの場面は特に必要とされない。ただ映像というのはもっと地味なものがあってもいいのでは。俯瞰で米粒みたいに小さい人が巨大な自然をちょこちょこと動いていく、みたいなシーンがあってもいいはずだ。それを時間をかけてゆっくり映したっていいはずだ。それが映画のコンセプトと噛み合っているならば。
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