KnightsofOdessa

アジアの嵐のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

アジアの嵐(1928年製作の映画)
2.0
No.45[小さな嵐がやがて巨悪の大樹をなぎ倒すが如く] 40点

サイレント映画を期待したのだが、なぜかサウンド版を見ていた。サウンドありきで作られたわけではない映画をサウンド付きで見る時の感情ってこんな感じなのね。でも元はサイレントだから#SilentFilmOdysseyに入れとく。

1920年代のモンゴル。主人公アモゴランは病床に伏す父から銀狐の毛皮を預かり、それを市場に持っていったところ悪徳白人商人ヒューズに買い叩かれる。これにブチギレたアモゴランは騒ぎを起こして追われる身となり、山に逃れてソビエトのパルチザンと出会い参加する。やがてイギリス軍に捕えられたアモゴランはチンギス・ハンの末裔であると判明し、傀儡政権の長として迎えられるが、目の前でパルチザン時代の同志を殺されて蜂起を決意する。

最終的にはモンゴル人の民族自決を謳った作品であるのだが、アモゴランがブチギレるまでかなりの時間棒立ちしてるのは非常に気になるところ。外モンゴルのおける諸外国特にアメリカとイギリスの搾取を描いており、いかにもソビエト的な資本主義を悪とする主張も薄っすら見える。そして何よりも謎なのが、主人公の名前がサイレント版ではバイルなのにサウンド版ではアモゴランになっているということ。なんで?モンゴル詳しくないから誰か教えて。

クレショフ工房の一番弟子だったエイゼンシュテインと異なり、同じ門下生でもプドフキンはショットの積み重ねによって一貫性のある映像の持続性を目指すモンタージュ理論を構築していった。それは本作品でも兵士のモンタージュや蜂起及び嵐のモンタージュに現れている。ただ、本作品に限って見てみてれば三大巨匠と言われた残りのエイゼンシュテインとドヴジェンコより映像の迫力は劣っている。

結局の所、緊張感とエネルギーのないエイゼンシュテインという印象を受け、緊張感とエネルギーで画を保たせていたエイゼンシュテインからそれらを抜いたら何が残るのかという疑問に帰着する。だから全体として弛緩しきっており、凡作という評価を下さざるを得ない。

イギリス軍の偉い人がブチギレてる時に後光が指す&煙出るのいいね。もうその場面しか覚えてないわ。
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