高田渡の悲しみや失望や自己矛盾を描いていない。
ライブ映像と街の散歩の映像が続き、高田渡のキャラクター任せで、まるでドキュメントしていない。
高田渡を知らなかった人に監督をさせているので、カメラマンが撮っておいた良いシーンを本編に使用していないし、高田渡の歌では唯一の駄作である「酒心」なんていうものを流している。
事実上、自主映画出身の監督のメジャーでの出世に高田渡が利用されたわけである。これは「たまの映画」と同じ手法だ。それはドキュメンタリーの対象者に失礼ではないだろうか。
この映画のプロモーションにつらなるかたちで、ライブの数が増え、翌年の春、旅回り先で彼は永眠した。
柄本明さんプロデュースだから言いにくいが、これをドキュメンタリーとは思えない。その後に作られた2つの映画も同様だ。
タイトルも苦手だ。なぜ、こんな題名なんだろうか。
何も語らず存在しているだけで雰囲気をつくれる高田渡が偉いのだ。
そしてそれは高田渡の自己犠牲の賜物である。
いったい誰が最初に、「飄々とした仙人」「時代は変わっても変わらない男」なんて言ったんだろうか。
実際の高田渡は、そんな人ではなかった。
悩める賢い美少年のような人でした。
高田渡のドキュメンタリー映画は、まだまだこれからも制作されるべきだ。