このレビューはネタバレを含みます
ヒロインのマリオンがベイツ・モーテルの剥製の鳥、家や母親に囚われたノーマンと、妄執に囚われた自分とを重ね合わせる。彼女がノーマンとの対話後に名乗る名前は「クレーン」(偶然ではないだろうが「鶴」という意味だ)。ノーマンは名簿と照らし合わせて、書いた名前が偽名であることに気づく。この瞬間にマリオンは獲物としてロックオンされている。
出会った当初、ヒロインもノーマンも、自分を偽っている。しかしヒロインが不倫相手への妄執に囚われていたことに気づいたとき、ノーマンが「母は剥製のように無害だ」と言ったとき、お互いに真の姿で向き合っている。名簿の名字とヒロインが対話後に名乗った名字が違うことに気づいた瞬間、ノーマンは「これは殺してもいい(足がつかない)相手だ」と判断し、犯行に至ったのだろう。ヒロインの気づきとノーマンの殺意の芽生えをほぼ同じシーンに重ね合わせているのが秀逸。
ヒロインが殺されるまでが48分、ノーマンが死体処理を終えるまでが1時間。殺人までに結構長い時間を取るのが後世のスラッシャー映画との違い。
終盤での精神科医の分析は退屈だが、"transvestism"への誤解をその場で正しているのはよかった。
人格が入れ子構造になっていて、すでにノーマンはいないということにゾッとする。ベイツ・モーテルのオーナーとしてのノーマン→殺人を犯すノーマンの母親→ノーマンが自分に殺人の濡れ衣を着せたと思うノーマンの母親という人格ミルフィーユ構造を明らかにする最後の母親の独白に、物凄い緊迫感がある。すべての「サイコ物」ジャンルの名祖。