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デス・レース2000年のblacknessfallのレビュー・感想・評価

デス・レース2000年(1975年製作の映画)
5.0
これを再見してる人は多いんじゃないかな?ロジャー・コーマン訃報に触発されて。コーマンは監督もやってるけどプロデューサーとしての功績が圧倒的に大きい人だから。
年齢的に大往生と言えるので衝撃はないが寂しさはある。この人が送り出す映画がもう観れないと思うと。

ハリウッド・メジャーがヘイズコードの縛りや社風を気にして手を出せないが確実に需要があるゲテモノホラー、セックス ドラッグ ロックンロール&バイオレンスなプログラムピクチャーの傑作、怪作、迷作を数多く世に送り出し、徹底した低予算で利ざやを稼ぎ自らの帝国築いたコーマンの評価は確実に負の側面もあるが、ギャラは低いがバイオレンスとセックスを入れ予算内で仕上げれば監督の作家性に口を出さず才能があるがチャンスに恵まれない監督や俳優を世に出すきっかけを作った功績に異論がある人はいないだろう。
ジョー・ダンテにジョナサン・デミ、スコセッシだってコーマンが機会を与えなかったら存在していなかったかも知れない。デミやスコセッシの出世作や代表作はモンスターやギャング、セックス、バイオレンスを見せることに特化した娯楽映画、所謂プログラムピクチャーに興味のない人も観てるよな。そんな正統派映画好き達もしっかりコーマンの恩恵を受けている。
シネフィルと呼ばれる人にこそ観て欲しい。

人身が荒廃した全体主義の近未来、体制は圧政のガス抜きとして車で人を轢き殺しながらバトルするデス・レースを開催してる。大衆はそれに魅了されて圧政の苦しさから逃避してる。
秀逸なのが出場者が轢き殺す人間は往来にいる一般人で障害者、病人、老人と社会の役に立たないとされる弱者ほど点数が高く設定されてること。老人集団自決強要でお馴染みの成田悠輔の願望を具現化した悪夢的だが社会的弱者を見捨てることを暗に体制が容認するメッセージを送り、卑屈で愚劣な大衆がそれに呼応し弱者を敵視する現代の我が国の醜い空気感を的確に風刺している。
そんなディストピアをあっけらかんとしたトーンとコメディの脚本と幼稚にデフォルメされたキャラクターやデス・レース・カー🏎という、これぞプログラム・ピクチャーと言った手法で撮り切った本作はコーマンの真髄が詰まってると思う。

コーマンは徹底したソロバンの人で利益優先だったが、反面、強烈な反体制意識と反骨精神の持ち主だった。唯一、採算を度外視して撮った映画『イントゥルーダー』は南部の黒人差別を告発したもの。それもまだ色濃く差別が残る南部でロケをして撮っている。こういう気概があるからコーマンの映画は悪趣味でアンモラルでバッドエンドな作品も後味は悪くない。娯楽映画を多産してそこに強烈な体制批判を潜ませる天才。コーマンに匹敵するのは自分が知る限り鈴木則文監督ぐらいだ。
そのコーマンの反骨の意思は以降の多くのプログラム・ピクチャー作家に受け継がれてる。ここが数多いる商才だけの映画ゴロとの決定的な違い。コーマンが居なかったらアメリカのプログラム・ピクチャーは昨今の日本のように政府や行政の無謬性に媚びる腑抜けて不快な映画ばかりになってしまったかも知れない。

思いの丈を記すためにネタバレするが本作は独裁政府転覆の目論みデス・レースに出場したレーサー、フランケンシュタインの活躍でレース後革命が起き独裁政府は打倒される。バカバカしく下品で不謹慎なコーマン映画だが根底には虐げられた者、持たざる者への共感がある。美徳に溢れた映画人だと断言できる。


「映画は、弱い人たち、少数の弾かれてしまう人達に寄り添って作るんだ。なぜなら、そういう人達がひとときの楽しみを求めて見にくる娯楽が映画だからだ」
コーマンの映画制作哲学。
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