鍋山和弥

宮本武蔵の鍋山和弥のネタバレレビュー・内容・結末

宮本武蔵(1973年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

『悟り』とは何か?『悟り』の域に、達したのは、『宮本武蔵』ではなく、幼馴染みの、『又八』であった。『悟り』とは、大きな目標ではなく、身の回りの、人々の、優しさに触れ、身近な人の、有り難みを、噛み締め、感謝を、忘れないということ。ダメなとこだらけの、『又八』の方が、名を上げることを、早く諦めてしまったため、その域に、早く、辿り着いた。皮肉なことに、『宮本武蔵』は、剣が、強く、『悟り』には、辿り着けず、物語を終わる。『宮本武蔵』が、『悟り』の域に、達するには?仏教の開祖、『ブッタ』は、山籠りの、瞑想の末、山を降り、空腹の所、村人から、ご飯を、ご馳走になり、そのご飯が、本当に、おいしかったという。そこで、『ブッタ』は、『悟り』の域に、達した。空腹な所で、食したご飯の、有り難み。これが、何気ない、村人からの、優しさに、感謝するに、いたった。『宮本武蔵』の場合は、『ブッタ』の、山籠りの、瞑想の修行の、代わりに、終わることの無い、剣の修行の、道を、歩むだろう。このままでは、『悟り』の域に、達しない。『宮本武蔵』には、帰りを待つ、『おつう』が、いる。『宮本武蔵』が、剣を捨て、いち『タケゾウ』に戻り、『おつう』の所に、帰った時、『悟り』の域に、達するのだ。自分を、思ってくれる、『おつう』という、存在の有り難み。『宮本武蔵』が、『悟り』の域に、達するとしたら、ここだろう。
鍋山和弥

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