ニューランド

花火降る夏のニューランドのレビュー・感想・評価

花火降る夏(1998年製作の映画)
3.9
フルーツ⋅チャンについては、3、4年前に再見の『メイド⋅イン~』以外は今タイトルも思い出せぬ1本を観たくらいで、名高き『ドリアン~』『三人~』も気になりつつ少しは忙しい時期だったので素通りした。が、2作目の本作を観て、やはりそうすべきではなかった異才と認識し直す。処女作のパーソナルな狭さから、香港に住む事自体の意味を、中国返還期に絞って、その目に見えない歴史の壁を、分析的というより、意識と行動⋅存在⋅システムの複雑⋅交感する、感触を大胆に常識に怯まない強さで描きつけてる。前作のウブさ⋅無知⋅純愛⋅現実落差の反形式から、時代の歪んだ熱の証言者足らんともしている。流れとしては、英国軍香港部隊が解散され、僅かな退職金も当てにならず⋅権威の後ろ楯も失い、現実社会を勝ち抜く才覚も軍隊に嵌まり込んでとうに失ってる5人組。金への誘惑、今に残る軍体内の纏まりと指揮待望、自分は誰で何処にいるのかアイデンティティの喪失、知らぬ間に増殖の⋅若いモラルもない世代への断絶と憤り、失われても巨大な理念⋅構造を慕う心。続く二重支配価値観と、その組替え⋅益々拠り所の消失。それは、既に現実に適応してる筈の、一般社会に居続けた少し上下の年代にも残る(勝手挑発喋る少女をバス2階から放りなげや、歩いてる少女らにウンコ付き紙押し付け)。それらは、ヤクザの中の組織⋅忠誠の適応⋅狡さと、溶け合い⋅そこに逆により勤務規則を求めたりする(ヤクザはそれ以上に内面は社会意識に従順だったりする)。
描写は、車主観のDISセンターライン迷走イメージや⋅横め等実際疾走フォロー、新聞やTVによる逐次ニューズリールの騒がしさと包み、体制や時代色の音楽自在な力、巨大カラフルなネオンやディスコ⋅建物の窓にも映える⋅天空巨大な花火の麻痺的官能、あらゆる視界の欲望や⋅状況場所の構築に正確即した⋅粗くも怯みないアングル押さえ、結果度を外れ⋅吹抜け的空間や螺旋状へ身体ごとのりだしへもはみ出し、深さ限りないのや⋅窓前の奇妙橋的な建造物へ吸い込まれる様な感覚張り出し、二つの場~実際と抽象イメージのも~のカットバックも大胆普通に、らに変則化してく。内的世界が溶け込み、マスや群れの自生的うごめきが果てない巨物の尾っぽ感へも。スローやコマ落としが無軌道コミカルに取り込まれ、リズムが広い沼で踊り出す。青っぽかったり⋅モヤッとしてたり⋅くっきりか明るかったりもし、ルックは都度ルールなく塊りとしてインパクトを持つ。
対立するか⋅並行するか、 殆ど同一に見える2つのグループが常に導かれ来て、邂逅⋅捩れ合う。銀行強盗を同時期に目指す二団、解体した香港軍と入城してくる解放軍、共産党下を当然の香港警察と入城解放軍、ディスコやレストランに入場してくる(後者は刃物を持って)見た目も似ているが対峙張り合う若者の列。
前半は描写は、ユーモア⋅スピード⋅喪失感ら多方面にしっかりしてれるも、肝心の銀行強盗の成り行きは、何かインパクトがないうちに、フワフワ想定外が続き、銀行警備の職に就いてて招き入れた仲間の死や、先行もう一群にはヤクザの親分の娘、2群の得た金の争奪戦どころか主人公の弟の裏切り、弟の探しだしや友の仇討ちの当てなし、等がメリハリなく、進んでって夢の様に曖昧が過ぎてく。細部への気づきや主題の大きな中心が何なのかよく分からない。その代わり、時代の呼吸が映画⋅世界を呑み尽くそうとする、様々な思惑⋅意気が集中する場と動きが生まれる時の、人工の光の色⋅熱⋅交錯からの浸し、捉えきれない人の群れの自発的うごめき、として一気包みくるもの、が気づくと圧巻として現れきてる。それが通過し何かが終わった時、そこには人出の減少にもより静けさ⋅人工的纏まりしかなく(返還後の香港の趨勢の予感か確信)、只心や弱者配慮を失った新しい意識への、旧世代による⋅無意識の憤りの噴出~執拗で異常で狂気として結晶~だけが残る。映画⋅ドラマ⋅ストーリーとしては分かる気もしないが(英軍香港隊解散の1997年3月末~返還経て7月初旬のメイン、 9月、返還後一年の98年7月1日、の香港がドキュメント部分も艶かしく描かれてく。97年9月の度を超え⋅タガが外れた主人公に、致命傷に至らぬも脚各部撃ち抜き・両頬にも貫通穴開けられた少年が地下鉄の客として出てくる初め返ワンシーンだけ時系列から外れてるか)、充たされず裏切られる心が、対峙し⋅囲まれる光景としては見事に強靭さが掴める。
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