天馬トビオ

俺たちの荒野の天馬トビオのレビュー・感想・評価

俺たちの荒野(1969年製作の映画)
4.8
これも時代の趨勢というものなのだろうか。60年代末から70年代初めにかけて、それまで主に東京山の手の中・上流家庭の子女を主人公に「清く明るい青春像」を描いていた東宝映画にも変化の兆しが芽生え始める。それでも東宝映画の限界か、家庭や社会との関係をリアルに描くことに舵を切ったものの、なかなか泥にまみれて地をはうところまで描き切れなかった作品の中で、出目昌伸監督の『俺たちの荒野』は衝撃的な作品。

粗野で単純、だけど面倒見の良い哲也(黒沢年男)。純朴な大きな坊やって感じの純(東山敬司)。そして、化粧っけなし体当たり演技の由希(酒井和歌子)。基地の街で働く沖縄からの集団就職組の青年二人と、オンリーさんだった姉と美容院を営む少女の出会い。古今東西、小説・映画・マンガなどで悲劇にしか終わることのない男二人に女一人の三角関係――男同士の友情か、異性との恋愛かは、もちろんこの映画でも変わることはない。

同じように基地の街にたむろする青年群像を描く日活映画『野良猫ロック』シリーズとの決定的な違いは、この映画の三人が職業を持つ勤労青年であるということ。ヒモとして女性の部屋に転がり込んでいる哲也も、米兵相手に女性を紹介して小銭を稼いでいるが、それだってアメリカに渡るための軍資金。草ぼうぼうの荒れ地を買い取ることを夢見ている純とつるんでオートバイを乗り回す二人は、女の子をからかったりはするが、基本的に法律に反する行為していない。姉に反発する由希だって、給料すべてを貯金して通帳の管理は姉に任せている優等生。

そんな三人の悲劇に向かって進む物語には、いくつもの名シーン、伏線が描かれる。

サウナで汗を流す哲也と純の関係には、友情を越えたホモセクシュアルな雰囲気を感じる。買い取ったわずかの土地にモニュメントのように立てた、三人の名前を記したナンバープレート。哲也に向かって純が語る「自分が死んだら…」というセリフ。純から哲也に心変わりしていく自分に戸惑う由希。仲違いしてバーカウンターにぎこちなく左右に座る哲也と純の二人が、グラスを滑らせてそれを受け取り一気にあおるワンショットの格好良さ。豪雨の中、びしょ濡れになった紙幣を拾う哲也の悲哀と怒り。幸せそうなピクニックで、草に隠れて純を見送り、哲也に声をかける由希の残酷な喜び。はしゃぎまわる三人のシーンにインサートする、木にもたれて一人遠くを見つめている純の孤独。

突然の出会いと、突然の別れは、青春という季節ならではのものなのかもしれないが、それにしても本作の結末はあまりに悲しい。かつて林美雄さんの深夜放送で勧められて初めて観たときに感じた衝撃と感情は、今でも変わることはなく、ぼくの心の深い部分に棘のように刺さったままだ。50年近く経ってもこの疼きは消えることはないし、逆にこの映画を観るたびにより強くなっていくという予感がある。

三人が共有し喪った荒野は、姿かたちを変えてぼくの心の中にも広がっているのだろう。

「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」
天馬トビオ

天馬トビオ