ルサチマ

適切な距離のルサチマのレビュー・感想・評価

適切な距離(2011年製作の映画)
4.7
2回目 @シネヌーヴォ

大江崇允特集「映画の術」にて。
自主映画という枠を超えてやはりテン年代に日本で制作された娯楽映画としては別格の出来栄えだと思う。

この映画の構造や盗み読まれる日記というツール(現代におけるSNSとの親和性)については既に論じられているので割愛するが、ひとつだけ日記の特性について触れておくと、本来人に見られまいと書く日記は当然ながら本人にしか知り得ないプライベートな情報が綴られることを前提としている。

『適切な距離』における映画の術とは、紀貫之の『土佐日記』がわざと女性的な平仮名を用いた文体で書かれたような試みと近しい。つまりはプライベートを綴るという前提のもとで、母に盗み見られるための記録を嘘の語り口で堂々と書き連ねていくこと(撮影されていくこと)こそが、大江の仕掛けなのだ(冒頭のテロップでこれは雄司が全て自分で綴った日記の再現であることが示されていたことを思い出す)。

プライベートな出来事も母とのやりとりも全てを嘘で綴ってみせた雄司の姿を見ると、SNSで偽りの生活を記述するネット民の姿と重なるようにも映るだろうし、そのような人物造形の側面を見て気持ちが悪いと非難する目も当然あるだろう。しかし雄司という男が日頃演劇学科に身を置いて全く自分と正反対の人物を演じることができてないと批評されたシーン(しかもそれが大江のいうドキュメンタリーカットによって撮影されていること)を思い返すとき、私はこの雄司という人物について、偽りの生活を記述する現実離れした男というイメージとはまるで違う人物像がヴィジョンとして立ち上がっていくのを確かに感じた。このドキュメンタリーカットにおけるレッスンで自分と正反対の他人を演じることができないという指摘は、自分自身を見つめていないことへの批判だと考えられる。それは言うまでもなくリクルートスーツを身に纏う就活生が直面する問題とリンクする。

思い返せば雄司という人物は存在しない弟についての話を過度な酔っ払い演技によって笑いを取っており、現実的出来事さえをも嘘と紛らわせてしまう演技者だ。
そんな演技者の雄司が他人を演じることができないと批評されるとはどういうことか。雄司にとっての演技とは、自分で体験し、見た現実に対して自分から嘘を重ねることで、現実を生きやすくしようとするものだ。もしかすると雄司は嘘をつくことでしか現実を生き抜く術を獲得できない人物だと考えることも可能だろう。だからこそ自分で自分を見つめることは、彼にとって困難な(それまでの自分の生き方そのものを改めるほどの)行為であるに違いない。
自分を見つめるとは耳障りの良い言葉であらゆる広告でそのような文言を目にする上に、演劇や映画をはじめとする表現においても付き纏う言葉のひとつだ。
だが、この嘘をつき続ける雄司の生き方は、自分を見つめること以上に、ある意味で強固な意思によってでしか実践できないと想像するし、それは決して簡単に否定できるものではないと感じている。そして個人的な関心としては、本当のことを言ってるように見える人の生き方以上にこの雄司のような存在に興味を惹かれる。

現実さえも嘘と化かしていく雄司が日記の筆をとり嘘を重ねていくのは、確かにあったクソみたいな現実世界を自らの手で書き直す(生き直す)行為であったのではないか。

上映後の劇場で佇む監督に、この日記が本格的に嘘を記述していくことを宣言するきっかけとなる母の日記シーン(母と本来死んでいるはずの弟が、雄司を死んだことにして仏壇に線香をあげるというもの)の直後に、私は表示されるテロップの日付を見間違えて、映画の時系列がこの仏壇のシーンの前日へと時間を戻して雄司サイドの視点で同じ場面を繰り返していたように錯覚したこと(すなわち雄司が自分で日記を書き直しているように見えたこと)を伝えた。これは私の見間違いに過ぎない話ではあるが、そのように錯覚し、その錯覚を信じたくさせる力が雄司のつく嘘にはある。

雄司の嘘は現実を拠り所にしながら、過激なまでの記号化した「芝居」とそこからの落差のある自然的振る舞いの芝居へと転じることで観客をユーモアと共に嘘へ加担することを可能とする。そうした嘘への加担によって到達するクライマックス(死んでいるはずの弟と電車で隣り合わせに座る場面とその直後の父と母と弟、そして弟の恋人が邂逅するお好み焼き場面)では、遂に弟が生きていたかもしれない現実と、その場合の幸福を実体化させるべく、この映画において最長の長回しシーンへ突入する。
映画においてカットが割られない長回しは紛れもなく現実と同じ時間が流れていることを観客が認識するため、この映画において、現実には存在するはずもない最大の嘘の時間を最長の長回しによって捉える語り口には誰もが驚愕するだろう。事実、このクライマックスを見たとき、冒頭のテロップを見ていたにもかかわらず、本当に弟が実在し、雄司が存在しなかった世界の可能性を想像せずにはいられなかった。

ここまで雄司の嘘を辿ってきた私は、漸くこの映画が繰り返し手持ちカメラを用いてきた意図を見出せる気がしている。それはつまりこの映画における手持ちカメラは誰の眼差しなのかという問いへの答えだが、それは恐らく上記のような観点から推測すれば、日記の中の世界に生きる人物の視点なのではなく、現実を眼差したうえで、この嘘を記述せざるを得なかった(現実をそのように見ざるを得なかった)雄司の視点だ。

そんな取るに足らない結論をわざわざ言うまでもないかもしれないが、私はこの手持ちカメラが一体誰の眼差しなのか、映画を見てる最中には確信を持てずにいた。

例えば棚の上に背を向けて死ぬゴキブリを見つけた時の母と弟を捕らえたカメラの画角は、その後の母と弟が雄司の仏壇に線香をあげる妄想場面において仏壇側から母と弟を捕らえたカメラポジションと近しいことが明らかで、手持ちカメラが日記を書いた雄司その人の視点だとした場合、雄司にとってこの場面はとてつもなく居心地の悪い視点であるだろうと想像し、そんな視点に自らを置いて日記を綴ることの異様性に困惑したのだ。

それでも、この映画の手持ちカメラを嘘の日記を綴る雄司の視点だと仮定してみると、死んだゴキブリと同じようなポジションから母と弟を見つめる視点を雄司が持ち合わせてしまっていたことの重大性が「適切な距離」という意味とともに、強烈な喚起力をもって観客に呼びかけてくるだろう。

タイトルに掲げられた「適切な距離」とは日記を綴る雄司が、自分が存在しなかった可能性からの視点に立つことで、ようやく身の回りの人々と交流できる、そういう距離なのかもしれない。

この映画の不気味さとは、人物の関係性が現代のSNS社会を彷彿とさせるなんてことにあるのでは決してなくて、日記を綴る人間は確かに存在しながらも、あくまで死者のような目線と化すことで現実の人々と交流しようとする、高度な嘘の積み重ねにある。

だからこそこの映画のラストで書き加えられた未来の日記は、絶えずまた書き換えられる可能性を残しながらとりあえずの結末として用意されている。


1回目 2018年5月22日 @池袋シネマロサ

以前シネマロサで見た。一見危なっかしい手持ちカメラと俳優の誇張されつつユーモアを交えた身振りのバランス感覚が映画と演劇の調和の取り方として素晴らしい。
『ドライブ・マイ・カー』繋がりで大江崇允にも再度上映の機会が与えられて欲しいし、大江崇允は濱口以上の才能だと思っている。
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