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ファンキーハットの快男児のニューランドのレビュー・感想・評価

ファンキーハットの快男児(1961年製作の映画)
3.3
✔『ファンキーハットの快男児』(3.3p)及び『ファンキーハットの快男児 二千万円の腕』(3.2p)『お葬式』(3.4p)▶️▶️

 後の作風とは異質の出発点で魅せていた作家の確認を別項で纏めた(纏めんとしている)ばかりだが、スタート時の資質·傾向をストレートに伸ばし、鍛えていった作家らも当然に印象的だ。
 『風来坊探偵~』を含め、割と最近、10数年前くらいだかに名画座であまり良いプリントではないので観たが、SPを遙かに越える意気と威勢の良さ·予想外に才気煥発と、感心した記憶がある『ファンキー~』二本。永く、いい印象だけが増幅してたが、綺麗めのプリントで見直すと、テクニックと伸びやかな纏る力はともかく、まぁ、それなりの枠内から出るものでもない。二本とも、殆ど同じ役者が、殆ど似た設定で出てくるが、相互に連続性はなく、微妙に役柄が違う。警察とも懇意な探偵事務所のドラ息子が、今風でカッコよく、軽はずみに事件や女のコに首を突っ込んでく、千葉=深作の原点的作。車の疾走·アクションとキャラのノリの良さに合わせての、横へのフォロー以上の移動やパンスピーディ往復、それは前後へや上下(空へも抜け)や傾きや手持ちめに関しても伸びてく。注目物に対しての数段寄りカッティングや、90°変や切返しも締めてく。まだ体操選手の名残りある千葉の映画枠を越えて柔軟で果てない体技や曇りない表情も、ドラムらが締める音響も長編一般作より遙かに充実し、次作もだが何より会社事情の侘しさなど端から欠片も気にかけてない。次作の方は、伸びやかさよりも、節々をしっかり締めまくる、これもSPとは思えない力業で、90°変や表情の締め、野球中継と寄り別撮り懸命組込から、DISや馬で疾走や浜辺ら迄、多彩に前作キャラを微妙にイジッての趣向をこってり楽しんでくタッチ。いま言ってもしょうもないが、これは伸びてくな。
 車ディーラーと女のコにしか興味ないのが、株狂いでモダンな娘に同調し、株の上下監視に付き合う中、役人の建設局長と、産業会館入札の癒着、その裏事情知った秘書の局長子息誘拐金での株ツッコミ、らに係わってく一作目。二作目は金の卵の高校野球優勝投手を囲いコントロールを狙う男が、脱走時怪我負いを、隠し通す中で、整形医の通報助手を殺し、それが主人公の意中の彼女の見合相手だった事から始まる話。
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 『お葬式』。陽水は今回もわからなかったが、黒沢は当時伊丹より作家としては高名だったが顔は知らなかったので今回初めて配役がわかった。それ以上に当時の伸び盛り若手·着実中堅から、特に日本映画史の生き証人たちの最後の勢揃いとでも言いたい壮観キャスティング、は今になっての方が眩しい。今回焼付タイミングを当時に併せてのプリント化らしいが、もっと整いコントロールの行き届いた画調の印象がある。当時見終わって、小津+ドライヤー+ルノワールと思いついたのは、伊丹が前年頃、汎ゆる作家主義線上古典の上映会に、繁く通い勉強してたを目撃していたからだ。序盤のアップの切取り·部位分解·それでの追い·角度切替·空の瞬間表情変りの、組込みの意気·密度はなかなかに凄いが、その後全体的には、日常の様々な自然と個別特異を、自然の侵食力·トリックやカメラワークによる空間移動力·絵が空いてもいる長廻しめの人間鑑賞·手持ち続きでの浮つく人の心の外形化、らを丹念も一貫スタイルとは別の都度添い方誠実で距離と対象を絶対化しない親近沿い方の形を見せてゆく。それは対象への分析だけを絶対化せずに、そこに自ら近づき同化もしてゆく、伊丹映画の原点なのかも知れない。テーマの視覚化·解説·真情入口化のこの作家の、まだ固まってないが、感じ良い雛形と成りえてる。
 しかし、当時確かなより確かな感動もあった筈とまさぐってて、ラスト辺に行き着く。「ひとつ心残りは、寂しく1人で逝かせた事。2人で死を体験共有するべきだった」と、主人公を悩ませた最後の挨拶を、喪主を引き寄せての義母がやはりと代わり、菅井の1代の名演を呼んだは、後年のような計算の固めに至ってなかったからか。実は、偉大な父に比べ凡庸なと見限り、伊丹の作品は初期4本しか見てないが(『タンポポ』だけは素晴らしかった)、この頃は、まだ有用性と話題性を謳う無理な武装の窮屈がなく、自由な息吹があった、と思い当たる。
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