サミュエル・フラーが今まで見た中で最高のウェスタンと呼んだWilliam A. Wellman監督の日本劇場未公開作。
さらにスティーヴン・スピルバーグが最も好きな監督としてウィリアム・A・ウェルマンの名を上げている。
Walter Van Tilburg Clarkの同名小説を原作にしてLamar Trottiが脚色。
1885年ネバダ州で起こる私刑を題材とした物語。これはウェスタンものなのか?
そのジャンルに入れるべきか否か…趣きが全く違うような気がする…。
冒頭から思い込みが激しすぎる人たち。
そして粗野で野蛮。
こんな人たちが現在のアメリカを作ったのか…と思うと、陰謀論やネオナチによる偏ったモノの見方を簡単に信じてしまう層が一定数いるのも頷けてしまう。
根本はまるで変わってない気がする。
自警団を組んで、自らが信じる正義の名のもとに、犯人であると断定して吊し上げる。
これと同じことが現在ネット上で頻繁に行われている。正義の美名のもとに、独断で吊るしあげる行為は非常に恐ろしい。
人間は月に行くほどに科学技術を発展させてきたが、攻撃的な本質は何千年も変わってない。醜くて愚かな生き物である。これを人間ひとりひとりが自覚することから先ずは始めなければならないだろう…。
さて自警団…殺す殺すと息巻いてたのに、急に夜明けまで処刑を待つと言う。なぜ?夜明けの理由は?なぜ待つのか?見ててもよく分からない。然るべき正当な理由が脚本として必要な気がするけど…これでは尺を延ばすためだけにしか感じない。
さらに、なぜ処刑される側に手紙を書かせるのか?これも理由が明確にないように思う。あとで処刑した側が読むんだろうなぁ…という穿った見方しかできない。
そして…処刑の時間。
この3人を裁判にかけた方がいいと思うものは、あちら側へと多数決を取る。
7人の男たちが移動する。
んん〜ん…だったら、はじめからこんなところまで来なくて良かったんじゃない?と思ってしまった。処刑に反対するなら初めから町に居残ってれば、その意思は伝わるだろうに…町に残ることは難しかった的なセリフがあったけど。そうなのか?ここで裁判した方がいいという立場を明確にするなら、初めから町に残れよ!
ここに来る過程で気持ちが変わったのであれば、その心情の変化は見ている側には伝わらないと思うけど。
跪き告解をするメキシコ人?
朝陽が彼の後ろから斜めに入り綺麗な構図。
親父の息子に対するパワハラがエグい。
吊るされる瞬間は見せない。
馬の尻を叩き、馬が走り出すと、足元が浮き首を吊ることになる。
これをワンカットで下の人間が移動すると、吊るされた人の影だけが見える。
なかなか冴えた演出。
そしてそのままみんな、そそくさと馬で帰るのがいい。
◯BAR
カウンターに居並ぶ男たち。
字の読めない相棒のために、私刑にされた男の手紙を読み聞かせてやるHenry Fonda演じるギル・カーター。
その時のショット。
手前に背の低い相棒のアップ。
横を向いている。
その相棒の奥に手紙を読む背の高いギル・カーター。
手前の男のハットのツバで、奥の男のギルの目線が隠れる。
このショットが妙に美しい。
現代では、こういう構図は絶滅してしまった。なんでもかんでも被写体に寄って見せるより、見せないことでの破壊力はあると思う。
オープニングとエンディングがシンメになっているのが何ともお洒落。
オープニングでは馬に乗って2人が町に入ってくるのだが、そこへ犬がサ~ッと横切る。エンディングでは町を出て行く2人に、またしても犬が横切る。
この犬も当然演出してるよね?
こういうところに完璧主義な監督の一面が見てとれる。
素晴らしいタイミングでフレームインして、画面の対角線に歩いてフレームアウトしていく。馬と交差するように…これは何テイク撮ったのか?1発で撮れるとも思えない完璧な足の運びとタイミング。
素晴らしいワンちゃんと、素晴らしいドッグトレーナー。
そしてこんな細かいところにこだわる姿勢こそが、ウィリアム・A・ウェルマンという監督に興味がわくし、これは好きになってしまう…。
漫画家・新井英樹のTwitterより
いまは「他者を裁く」ってことが安易にできる分、その罪と責任については個々が本当に考えないと。下手すりゃ他人の人生を終わらすわけで…本当の罪とか責任は、誰かを裁いた人の数で割れたり小さくしたりできないから。ネット上で「他人を裁かない」って簡単、指を動かさなきゃいいだけなんで笑。