D

親密さのDのネタバレレビュー・内容・結末

親密さ(2012年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

次いつ見れるかわからないから忘れないように全部書きます

岡本英之さんの曲
https://on.soundcloud.com/7QFWD7Ht9DV75Pxg7
-----
一緒にいるために変わりたい人と、変わらないために一緒にいられない人のこの決定的な違いは一体何なのか。同時に、変わらないでいて欲しいと思うこともまた、暴力(=選択をさせないこと)とまで言えるかはわからないが、圧力のような(映画内での表現を忘れた…)呪いである。
では一体何が愛なのか、他の人とは違う何かがあってその人を特別好きになっているのだからそれが愛の源泉であるはずだが、きっかけはきっかけ以上の理由にはしないべきで、愛することは即ち毎日一定でない相手を存在するまま受け入れることか。我々が自分自身にそうしているように。
好きだと思うことは魂が身体を飛び出して相手の魂のそばに行きたいと願うこと、想いを届けたいと願うことである。しかし相手の身体から魂を引き剥がそうとするのは暴力だ。あなたは私ではない。ゆえにインタビューやディスカッションのような各駅停車の言葉による確認が必要なのである。親密になると言葉は快速になるのでこれらを忘れがちである。恋人に、初めて質問された気がする、と言われてしまったら自分も悲しいな。
尊敬は共感と遠いが、尊重は、自分がされたら嫌なことは相手も嫌かもしれない、と想像し、各駅の言葉で質問をすることである。

本作、ずっと馬鹿真面目とも言える真剣さが貫かれている一方で、欲しいタイミングに茶目っ気が現れるからメロメロになる。最後なんだあれは、一生忘れられないわ
義勇軍に行ったみっきーがとてもいい感じになっていて、守るべきものがそこにあると彼が思えるのか私は勝手に悲観していたので驚いたが、すごく嬉しい驚きだった。こういう驚きをずっと感じていたいなぁ、ありがとうございます。
濱口作品の劇的でない点が好き、今回も区切りとしてはぶつ切り、とはいえラストシーンの後味はこの上なく良いという妙。君といる時間、いない時間。一瞬すれ違ってまた離れる電車のような。
ただ戦争を「使ってる」感は出てしまっていたのかな。私はいつも映画のあらすじ等の「虚構と現実が入り混ざる演出」という表現がよくわからない

深いところ行くだろ?落ちてんだー それを拾ってくんだー とは。言葉は街に落ちている、とは、思ったことがなかったが、確かに私の言葉というのは存在せず、言葉は借り物だという認識はある。僕の発する言葉はしけっていてあなたの心に花火が打ち上がらない なんて悲しい詩なんだ
良平の喋り方がとにかく好きだ 刺々しいのにたまに包んでくるのは、彼の自分自身への姿勢をそのまま反映しているのか。自分ができる動きは誰でもできると思ってしまっている、つまり自分への厳しさが他人への厳しさとして現れる。でも最初から自信があったわけでもないし、不安そうな演者に「自分で嫌だと思っているところがお前らの武器になる」と言うこともできる。私も、自分らしさというのは常に「やや正しくないところ」(他者から必ずしも賛同されないところ)にあると思っているので、泣きたくなった。

あの劇のモデルにもなった言葉が下手な令子、令子も世界は処理対象となる情報ではない、ビデオに映らないすごいことが起こる世界だと思って(信じて)いる。
どこだったか、令子の顔に寄り、いきなり切れるシーンがあった。おっとすみませんと思った、勝手に感情移入してわかった気になってはいけない。

昨日と今日で関係性が異なればなくなってしまう親密さ。生き別れた兄へ手紙を書く親密さ。手相に触れることやセックスで手っ取り早く得られる親密さ。「女子友」の親密さ(濱口竜介のガールズトーク解像度に驚いた)。死ぬな、俺が養うと胸を貸すルームメイトの親密さ。


------
備忘

「役者同士が信頼関係を築いたり、親密さを獲得するのは、極端に難しいことではないと思うんです。ただ、その親密さをいかにそのまま外に、観客に開けるかどうか、ということが問題にされる必要があると思います。さっき、役者に敬意を払うべき、という話をしましたけど、それはきっと役者にとって最も重要なものを、彼がキャメラの前に、つまりはあらゆる観客の前に差し出すから、なんですよね。それはとても危険なことだとも思う。その危険なことが、いったいどうしたらできるんだろう、と。その問題意識が『親密さ』に持ち込まれた気はしますね。」
「『親密さ』を通じて理解したのは、役者が役者になるには理由があるんだ、ということです。目立ちたい、とか自己表現したい、とかの向こう側の理由ですね。そして、演出する側はそれに敬意を払わなくちゃいけない。役者がキャメラの前に立つということに対して、こちらは敬意を払わないといけない。スカウトなんかは別かも知れないですけど、いわゆる役者が役者になるということには、こちらが勝手にどうこうしていいかどうか、躊躇うべき理由があるんですよ。ただ、その躊躇いは、まさにその敬意によってこそ越えられないといけない。簡単な言葉で言えば、信頼関係を結ぶということなんだと思います。それは、一緒に飲みに行ったりとか、仲が良いとかそういうこととはちょっと違う。
そうした信頼を結ぶためには、『PASSION』のように「かすめ取る」やり方を是としていると、やはりよろしくない。キャメラの正面を向かせたのは、それがある意味で「演じる」ということの最たるものだからですね。相手ではないものを、相手と見立てて演じるわけですから、これは役者の自由を最も阻害する足かせに思えるわけです。でもキャメラの前でこそきっと、自由になるべきなんですよ……。キャメラの前にいてなおと言うか、キャメラの前にいるからこそ役者が自由でいられるようなやり方を発見する必要がある……。キャメラを牢獄のようなものにしない、そういう演出の態度がきっとあるんだと今は思ってます。」https://www.nobodymag.com/interview/hamaguchi/index4.html

「個人的には、何か抽象的なテーマがあって、それを映画で表現しようとは全然考えていないんですよ。脚本を書いたりする中で、手触りとしてこうなった方が面白いなということの積み重ねなので。それはやっぱり抽象的なものを映像に変換することが難しい、と言うかあまり面白くないということを、僕自身が考えているからだと思います。具体的に出てきたものが観客にどう作用するのかだけをひたすら考えるというか。なので、メッセージをどう伝えるかということを、実はあまり考えていない。たださっきも言ったように、人物たちがちゃんと動いていけば、自然と観客が読み取る何かが生まれるとは考えています。」https://www.geidai.ac.jp/container/column/ge_idai_005/2
D

D