私は反戦映画があまり好きではない。
とまあ、あえて煽情的な書き出しから始めてみたものの、この話は後段に譲ることにしよう。
ま、サビから始まる歌みたいなもんだと思ってください。
あ、ちなみに本レビューめっちゃ長いっす。こんなもの読まなくって大丈夫っす。
さてさて、コロナの影響で映画が全然封切られないこともあって、依然「ひとり大林宣彦追悼映画祭」を絶賛開催中で、もちろんそこには、過去に観た作品を観返すのと、未見だったものをようやく観るという両方が含まれているのだが、本作はいわゆる戦争三部作の中で唯一未見だったものだ。
で、これは本作だけでなく、追悼映画祭をやっていく中で改めてずっと感じていたことがあって、それはつまりこうです。
「大林宣彦は吉本新喜劇である」
冒頭の煽情文の説明もしてないのに、「こいつ、何さらにおかしなことを言ってやがんだ」とお思いでしょうが、まあ、聞いてくださいな。
このテーゼは、ほぼ完全互換に次のようにも言い換えられる。
「大林宣彦は親父である」
つまり、こうです。
私は、大林宣彦についてはデビュー作の「HOUSE」をリアルタイムに観ている。もっとも、田舎の公民館に半年遅れで巡業にくる映画を観る体験をリアルタイムと呼べればですが、いずれにせよ、9歳だか10歳だかの歳に「HOUSE」を観た。
これ、怖かったっすよ。うん。
小学生の子供には、あの演出やリアリティ・ラインですら、恐怖でしかない。
「ここは笑うところですよ」なんていう文法を読み取るリテラシーなんか子供にはないもの。
ピアノのシーンの「あら、ないわ」なんか、夢に出てきた。
続く、「ふりむけば愛」も10歳の時、封切りで観た。
というのも、これは、そのうち野村芳太郎の「しなの川」をレビューすることがあったら書きますが、うちの親というのは「子供を子供向け映画に連れていく」という発想がなかった人で、父もしくは両親が観たいものに連れていかれたのが常だったから。
まあ、10歳のガキでも百恵ちゃんのベッドシーンは強烈ですよ。「ひゃ~!」とか思った。
まあ、そっから先はテレビも含めて(当時はだいたい1年後にはテレビでやってくれた)、ほぼ観てる。
もちろん、劇場に足を運んだ「時かけ」が決定版で、「大林、すげえよ! 大林、すげえよ!」となった。
角川2本立て、尾道三部作、エトセトラ。
と、そこに「漂流教室」がやってきた。大学に入った後だな。
「漂流教室」ですよ。子供の頃、楳図かずお大先生の原作に熱狂した、あの「漂流教室」ですよ。
で、観ましたわな。
……(無言)。
……(虚無)。
同世代の方なら、ご理解いただけるでしょ。
「おれ、もう大林映画はいいや。うん、卒業」
そんな感じ。
吉本新喜劇の話はどこに行ったんだ、と思われた方。
これは関西限定かもしれないけれど、子供の頃はみんな新喜劇好きじゃないですか。
小学校の半ドンは走って帰って新喜劇ですよ。
それが、そのうちにどうでもよくなってくる。つまんなくなってくる。
で、大人になってから、たまたまつけてたテレビでやってるのをチャンネル変えずにそのまま見続けると、なんと面白いんだ、これが。滅茶苦茶面白いんだ。
もちろん、役者さんたちは世代交代はしてるにせよ、やってることはおんなじ。
そこで思うのです。
「ああ、おれは、吉本新喜劇を否定することで、大人面してただけなんだなあ」と。
親父もそうでしょ。
人は誰でも一度は親離れ、親父離れをする。
でも、後々、人生のいろんな局面に、「親父って凄かったんだ」と思わされる。
そこで思うのです。
「ああ、おれは、親父を否定することで、大人面してただけなんだなあ」と。
大林映画って、私にとっては完全にこれの相似形なのです。
「ひとり大林宣彦追悼映画祭」やっていく中で、「大林宣彦は常に凄かったんだ。常に同じだったんだ。変わったのは、おれの見方だったんだ」と改めて感じたのですよ。
なので、
「大林宣彦は吉本新喜劇である」
であり、
「大林宣彦は親父である」
なのです。
昔からずっと変わらず、凄いんです。
ああ、長かった。
ここまで読んでる人、ほとんどいない気がする。
試しにこうやって、今ここで、手をひらひらさせて、滑稽な表情を作って、パソコンについてるカメラの前で阿呆踊りをしてるけど、ほらほら、誰も見てないね。
というところで、ようやくサビです。
「私は反戦映画があまり好きではない」
なんというかな。これは好戦もそうなんだけど、反戦映画ってなにがしかの思想誘導になってることが多いじゃないですか。
利益誘導と言い切ってしまってもいい。
特に太平洋戦争を描いたものにそれが多い気がする。
でも大林宣彦は違う。実は「HOUSE(これももちろん戦争テーマの作品ですよ!)」以降、一貫して違った。
いや、ごめんなさいね。上に書いたように、新喜劇や親父のように一旦大林映画から離れていった自分の意識の中には、「大林映画の叙情性や反戦思想がなんか胡散臭い。なんか気持ち悪い」というのがあった。
ごめんなさい。そう思った時期もあったのですよ。そんな時代もあったねと。
でも、大林作品の。特に戦争三部作の。とりわけ「野のなななのか」の反戦は凡百の映画とは全然違う。
ここに描かれる反戦思想は、滅茶苦茶凄い。
なんというかな。無理やり言葉にすると、それは「イデオロギーのない反戦思想」なのですよ。
もちろん、これが語義矛盾であることはわかるんだけど、でも、そうとしかいいようがないんです。
だから、観てて刺さる刺さる。もう、心をぐしゃぐしゃにかき乱される。頭をぐるんぐるん振り回される。
「イデオロギーのない反戦思想」って表現がおかしいければ、これを言い換えるとなると、こりゃもうほんとに恥ずかしいんだけれど、えい、言っちゃえ! それは「愛」なんですよ。
だから、本作は反戦映画であるとともに恋愛映画であり、その両者が不可分に融合している傑作なのですよ。
「HOUSE」から41年経った今、初めて観た「野のなななのか」に、「HOUSE」以上の衝撃を受けた私はそんなことをレビューにしてみました。
なんだ、この、「冷やし中華始めました」みたいな言い方の締めは。