ウツロ

ヴィオレッタのウツロのネタバレレビュー・内容・結末

ヴィオレッタ(2011年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

芸術家としての自意識にしがみ付く母親とその写真のモデルにされた少女の話。舞台はフランス。

非常にコントラストの強い映画だと思った。凄まじい乖離が冒頭から終盤にかけてを支配している。豪華絢爛たる貴金属や絵や照明にあふれた母のアトリエと祖母の地味な生活空間の映像的な乖離。母が信じ娘にも信じさせようとした芸術という概念と、あくまで商業的な実態とのあからさまな乖離。年に対して不自然な成長をしてしまうという発達段階への乖離。映像的なもの以外、この乖離はおおむね、認識と事実の間に起こるズレといったところだろうか。

ここまで徹底的に乖離を描けば、ラストはあのようにするしかオチの付けようが無かったのかもしれない。しかしあの終わり方は何だか不思議だと思った。設定やストーリーこそ奇抜であっても淡々と、彼女達の中では現実のものとして起こっていた出来事たちが、突然これは映画だからと引き出しに仕舞われる感じ。あくまで作中の人物サイドと映画を観ている現実の人間サイドの「乖離」まで描こうとしている?とまで言うと言い過ぎかも知れないが。


信仰に篤い祖母も、娘を顧みずアーティスト像に固執する母親も、なにか不確かなものに縋っている点では同じとも取れる。その線上ではどこかに親子が交わる点があっても良さそうなものなのに最後までそれが描かれない。心情面でも人物間でも、とにかく何かを二つの要素に分解しては離れさせる動きが延々と行われ続ける映画だ。祖母と母、母と娘、娘と「子供らしさ」、親子と社会などなど。これらの乖離のうち最も明確で、かつどの組み合わせにも溶け込んでいるといえるのはやはり社会との乖離だろう。母の周りのアーティスト達は皆まともな大人としての社会的責任感を持っていないため、これはおかしい、児童搾取だというような正常な価値観に出会うことのないままにヴィオレッタは自尊心だけを肥大化させる。子供の成長過程で異質なものが関わってくるというのはよくあるストーリーだが、子供本人が周りを置き去りにする勢いで異質なものになっていく描かれ方をしていたのが本当にリアルで痛ましかった。もちろん子供には客観的な判断能力は無いと考えるべきで、本人が望んで異端者になったように見えてもそれは周りの大人の責任である、それはもちろんそうなのだが、子供が周りを拒んだ場合その責任の所在の判断はとても難しい。子供をどこまで一人の人間と考えるかによるのかもしれない。衝動性やリセット願望、顕示欲…と、異質な要因がヴィオレッタから見て取れるのは間違いないが、それをどこまでヴィオレッタ由来のものとするのか。当然その性質の全てが望んだものとは言えないだろう。しかし完全に、本人のせいではない、周りの大人の教育が悪いと言い切ってしまうと子供の自主性や尊厳に悖る部分が出てくる。子供が持つ良いところは子供が褒められ、子供の悪いところは親が責められるというのは優しさにも見えるが子供が異質なものと関わった場合にはそうも言っていられない。

こういった問題をまとめる言葉があるとすれば「子供の権利」あたりになると思うのだが、そうすると映画の中でされていたのとは全く別の角度から子供の権利の話をしていることになって面白い。映画の中では「子供が正しい方に導かれ成長する権利」を保証するのが親の仕事だと調査員は言った。しかしヴィオレッタを見てどうしても浮かんでしまうのは「子供が自分の意思に基いて、決められた方向から逸れる権利(そしてそれはどこまで認めていいのか)」についてである。後者の権利をすべて認めるとなると親の存在意義が分からなくなるし、なにも認めないのもまた子供の自由を奪うことになる。とはいえ子供がどんなに道を外れても正しく導くのが親や社会の役目とまでは、きっと誰も言えない。

校庭でのランニングシーンや後半で登場する調査員の台詞など、所々では現実的で凡庸な社会を象徴する要因が出てくるのだが、必ず母娘のどちらか(もしくは両方)の性質によってそれは遠ざけられる。二人から見た社会は単に退屈なものというだけではなく、自分たちをその構造と積極的に交わらせようとしてくる存在のように見える。もちろんそれは社会として正しい作用であるべきだが、既に様々な他の要因によって雁字搦めにされている母娘にとってそうした受け入れは痛みを伴うはずだ。治療を必要とする状態なのは誰の目にも明白なのに、治療そのものに耐えることができないという理由で悪化していく患者を見ているような、そういう辛さがあった。母が娘に対しあなたは異常だから専門家に見てもらうべきだと提案するシーン、あの時点でその提案は完全に手遅れだったため、跳ね返ってくるのは強い希死念慮だった。気まぐれにまともな社会に合わせようとした行為で娘との関係を更に損なうこのシーンは特に悲しい。その後も社会が二人を混ぜ合わせようとすればするほど乖離が生じ、正常とのコントラストは高まり続ける。それは格好良く言えば「破滅の美」であるかもしれないが、それそのものを美学として演出している映画ではないだけに裏テーマ的に強く突き刺さってきた。


そして何といっても本作の楽しみはファッションだ。衣装が物凄く良い。キーアイテムに使われたのがサンローランのショッキングピンクのドレスだったのも良いし、銀色のコートに女優帽の母親がドカドカ部屋に入ってくる冒頭のシーンも家庭のただならぬ雰囲気が見た目にも一発で分かるので素晴らしい。人物像やその時々の感情などを殆ど衣装だけで表現し切ろうとするような、ファッションの暴力みたいな映画だ。日常シーンでも登場の度に服が違うし、「特定の意味を持たせて服を着る」いうことに拘る感じがとにかく表現されている。ヴィオレッタがモデルとしての自意識を持ち始めた頃の学校のシーンなどは特におかしい。ゼブラ柄のショート丈ビスチェの上から紫のベスト、黒レザーのタイトスカート、ピンクのモヘアのロングカーディガン、ブーツ。どう見ても学校向けの服装ではないし、実際教師から説教を受ける際も「それになんだその服は」とか突っ込まれている。そしてヴィオレッタがそれを無視している。ここ本当に面白かった。周りの子供たちとは完全に彩度からして違うことを視覚的にぶつけてくるのが最高だ。ファッション面からも、ストーリーや演出からも、とても脳が刺激される良い映画だった。
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