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カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

2.0
【自分はきっと正常である】
『FRANCE』以外のブリュノ・デュモン映画として残っていた『カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇』を観ました。カミーユ・クローデルといえば、オーギュスト・ロダンの愛人というイメージがあるが、本作はロダンと彼女、そしてローズとの三角関係ではなく、心の支えを失い統合失調症に陥った彼女の精神病院での生活を追った作品である。これが問題作であった。

カミーユ・クローデル(ジュリエット・ビノシュ)は精神病院の中を彷徨う。彼女のいく先々には当然ながら患者がいるのだが、重度な精神病患者が不気味な笑みで彼女に笑いかけてきたり、接触をしたりする。それに耐えられない彼女は、部屋の陰で泣くのだが、そんなところにも患者が現れ不敵な笑みを浮かべている。

「わたしが泣いているところ見に来たの?」とカミーユは怒りを露わにする。彼女は病人としてロダンの弟ポールにこの精神病院へと連れてこられた。しかしながら、彼女は自分のことを正常だと思っている。誰も自分のことをわかってくれないし、小馬鹿にしていると考えている。

だが、次々と起こる事象を踏まえると彼女の精神が不安定なのは目に見えている。例えば、カウンセリングを受ける。彼女が「わたしを解放して」と懇願すると、カメラはカウンセラーの間抜け顔を捉える。これは恐らく彼女から観たカウンセラーの姿だろう。重度の患者と同様、自分を馬鹿にした顔に見えるのだ。そしてドンドンと精神が蝕まれていく。

ブリュノ・デュモンらしい陰惨とした事象の連なりが展開されるのだが、正直精神病患者(恐らく本当の人を使っているのだろう)を起用し、正常とは何かを語るにしてはあまりにも病人を悪意持って描いている気がして称賛することはできない。また、『田舎司祭の日記』における日記を書いていく描写を露骨に引用していたりするのだが、それをする必要を感じられなかった。

ただ、ある階級の者が下層(と思っている)階級に転げ落ちたときに、自分だけは違うと盲信する傲慢さという視点は鋭いものがある。それだとカミーユ・クローデルがあまりにもかわいそうな気もしますが。
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