ニューランド

波長のニューランドのレビュー・感想・評価

波長(1967年製作の映画)
4.5
✔『波長』(4. 5p) 及び ①『WVLNT』(3.4p) ②『SSHTOORRTY』(4.0p) ③『The Living Room』(3.4p)
④『プロパティ』(3.5p)▶️▶️

 改装なった日仏学院に、久方ぶりに作品というより、空いてる時間に会場を観に行った時に、やってるたのが建築に関する映像作品の集め企画で、メインはベニングやJ·ルイスだったが、あいにく両作品共、時間が他用とバッティングしてしまった。見れたのは、ビデオ時代に移ってからのスノウや、R·クレイマーの『マイルストーン』系の、自由と非所有·非占有を謳った時代から自己の足元を見つめ直す作くらいだった。
 スノウの作は、スクリーンというよりインスタレーションとして既に観た作品らだったが、全く初見は代表作『波長』を短縮·再編集したビデオ作品だった。
 『波長』を初めて観たのは’70年代後半とかなり遅い方だが、ブラッケージやメカス、アンガー·フランプトン·コンラッド·ジェイコブス·ホイットニー·ランドウを抜いて、当時觀れたこの種の映画の、しばらくベストだった。米加商業映画を加えても、当時主流のスピルバーグやチミノ·マザースキー·クローネンバーグらを問題にしなかった。キューブリックやアルトマン·スコセッシらの最高作に匹敵した。単にコンセプトの斬新·執着徹底だけでない、不思議な雑念が作品を孤高に留め置かなかった。
 室内と·窓からの雑踏の侵食·主体せめぎ、絵と·音の侵食、ドキュメントと作為目的人物のイン·アウト、の世界。人声と現実ノイズ音に·増大し占拠してく耳に触る機械的高音、白光介入と一面占めや点滅·又は光芒絡み、一面占めは橙でも、色んなフィルター掛け越しや·絞り変えでの内外映り変異、人の全体に係り·触るだけでもあるフィクション動き映り、夜間昼間のベース以降、そもそも一定厳密微速度ズーム一貫でもなく·連続性かなり恣意的で終盤はDISで壁掛海面写真内へポンと飛び。そもそも4つの縦長大窓と間の壁と掛かる物·天井と灯·テカる床板の室内と、終盤OL似で壁とトビラ出入り人らいる外界雑踏と、壁に掛かる写真内海面図の3世界近接交じる作。原理主義的でなく、汎ゆる映画要素の芽が入り混じり不安を掻き立て湧かせもしてく·原初サスペンスフルな始原的映画、一大壁画にして絵巻物感、実体ではなく、あくまでそのオリジン的なスピリットの視覚聴覚化作。当時のこの作家の厳密な映画とかなりズレてはいて、そこがまたいい。 
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 ①は、その30数年ぶりの、短縮再編集ビデオ版だが、アプローチが真逆に近く、新鮮だ。ズームを始め変移を追ってゆくのではなく、何重ものO·Lの手法を選び出し、その窓外の世界がきえ、淡くも引き締まった線と色合いとサイズ比が、瞬間の大小の、壁か入口戸か分からない上の、写真を比べ一枚におさめ、世界を掴み取るきり、それを現し続けて、ウェットを排してる。只終盤はズーム感覚が写真に向け、起こってゆき、一貫美観を離れる。元の作の終盤の部分の装飾·固定作かもわからない。
 ②は所謂ループ作で人の行為、絵画を画廊に持ってきて、披露し飾りかけるか·持ち歩くかして、画商に説明か·女性学芸員に導かれるかして、相手の頭に叩きつけて壊すか·すんなり帰ってゆくか、同じメンツで似てるも違う流れが、スタート時点をズラし、やがてO·L 同時進行してく、少なくとも変り目まではフルめワンカット作品で、片方はフォローパンしてく中、動きと身体がピッタリ一致の点があり、そこから入れ代わり、破壊も軋轢も退場も無化されて、延々繰り返される、事件化はなかったかの様な手触り過ぎで、マジカルで執拗なビデオ作品。スクリーンで見ると、創作てコンセプトの執着·粘り·透明化が見事で、嘗てスノウはフィルム時だけと思ってたのが、心地よくひっくり返され、身体を委ねられる。
 ③は、TV見てる居間の少年の、ソファや床に入って来る人ら、壁の装飾が色々増えてゆく、が一方向だけでなき、消えたり入替ったり破廉恥度を示したり、留めなく、細々はしたなくどんどん変わってゆく、合成·編集に凝りまくった、見かけワンカット·ワンサイズ映画だが、ビデオだとフィルムでこれをやった時の労作感は出てこない。
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 ④だけは、スノウと別番組だが、R·クレイマーの『マイルストーンズ』と似た、ヒッピー文化·生態、自由と定着軽視放浪の時代も、変容し落ち着き·黄昏·執着ベースに何時しか、変わっての地味な闘争·着実な足場固めの時代·世代に、移行してるのを、詠嘆ではなく、無様も正直に歩を進めんとしている、’70年代後半作。前半は、手持ちのフリーな長回しフォローが、垣根を無視して、流れ対処の途に、直感·真情でふらつき、出口をまさぐって、これまでの自由感覚に繋がっている。彼らグループとも言えない、感覚的半共同体の、都市を離れた家群。その土地の持主が、そこを富裕層の別荘など高価な収益を見込む業者に売払う。借地·借家の権利が確立されてないか、或いは個人的時代への感傷か、自殺を選ぶ者もでてきて、それをストレートに嘆き受入る感が、主。 
 一人が思い立ち、この地を適正価格で、皆でスクラムを組み、買い取り所有する道を提唱する。メンバーで頭金から、徐々に確実に買取るプランを、内外に対し打ち立てる。デクパージュも裁断され普通に細か·堅実になってゆくが、身障者認定をうけ保護下に生きて行こうとする者や、比較的小さな自分の家だけの負担分を割り出しそれを越えて、皆均等には従わない、など足並みはバラけてく、それを締め付ける物までは、手のうちにはない。しかし、それでも物事を進めてくスタンスは組まれてく。
 この時代の、映画表現のメインストリームにはならないだろうが、典型の1つには、映画的にも実生活的にも、なり得てる作。
 
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