昼行灯

氷の花火 山口小夜子の昼行灯のレビュー・感想・評価

氷の花火 山口小夜子(2015年製作の映画)
4.3
この映画を観るという7年越しの夢が叶ったー!😭😭
まるで足を付けていないかのように、まるで彼女には重力の概念が通じないかのようにランウェイの上を進む山口小夜子を見ていたら自然と涙がこぼれてしまった。

山口小夜子は徹底的に構築された存在で、実在するというよりはイメージに近しい。人々は1人の人間としての山口小夜子そのものを見ていると言うよりかは、1人の人間の実体をイコンとして、山口小夜子というイメージ、幻想を見ているのだと思う。
山口小夜子は西洋のみならず、東洋自身さえも長い年月をかけて形成してきた〈東洋的なるもの〉の象徴なのである。したがって、人々は山口小夜子を見ればたちどころに〈東洋的なるもの〉のイメージを想起せずにはいられないのである。
近代化を果たし、東洋は西洋を内面化することとなった。東洋は遠くなりにけりとでも言えばいいのか、近代化を果たしてから久しく経った戦後の日本人にとっても、前近代的な東洋の美を漂わせる小夜子の魅力は並々ならぬものであったものに違いない。
〈東洋的なるもの〉の幻想であるために、本来の小夜子は山口小夜子から徹底的に無化することに努めた。本来の顔立ちとは異なる日本的な顔にするために表情を調整することや、能面のような化粧、しなるような物腰は彼女から肉を剥がし、この世ならぬものにしたてあげているかのようだ。そこに立ち現れた幻想は、実際の東洋ではありえなく、あくまで〈東洋的なるもの〉の範疇に留まる。あえて付言するならば、本来の小夜子こそが東洋のはずなのである。
生来の小夜子が無化された結果残った山口小夜子という幻想は、モデルという職業の衣服を効果的に魅せるという本質上、衣服によって規定されているともいえる。小夜子が述べるように、ひとたび衣服を身に纏うと衣服がランウェイでの動きを小夜子に導く。
ランウェイでの小夜子はまるで微々たる、しかし確実に在ると思わせる一流の風のようである。その風に冷ややかさを感じるのは、肉としての小夜子がとうに失われ、ランウェイ上ではただ幻想が布を纏ってはためいているのみであるためだろう。肉感の失われた小夜子に温度はなく、ただ観衆は風を感じるだけなのだ。

あどけなさを携えながらも妖しげな、山口小夜子でありながらも似て非なる存在のような、この世ならざるところに連れて行ってくれそうな山口小夜子が大好きだ;;;;;;;;;;;;
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