mochi

私、君、彼、彼女のmochiのネタバレレビュー・内容・結末

私、君、彼、彼女(1974年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

初めてアケルマン作品鑑賞。やばいものを観てしまったという感想しか出てこない笑。普通にめちゃくちゃこわかった。そもそも考察が無意味だと思える作品。まあそれでも考察してしまうんだけど。
基本的に長回しなんだけど、かっこいい瞬間はめちゃくちゃ多いよなぁ。男と2人で鏡の前にいるシーンとか、家で1人で裸になって砂糖食ってるシーンとか。一番最初の画も美しいし、マットレスに寝てるシーンは全部いい。
恋愛映画として単純に解釈することはもちろん可能で、それが正当なのかな。部屋をでるまでのシーンは恋人と色々あった後の心境の表現だと考えられるし、そう考えると手紙も意味がよくわかるしね。一方で、他人の欲求についてよく理解できるし、受け入れられるけど、自身の欲求について迷いがある人間の話にも思える。空腹を理解するまでに多くの日付を要しているし、部屋を模様替えしまくるというのも、自己の欲求の探索の表現にも思える。裸で外の人に見てもらう行為も、他者(男)の欲求をよく理解しているとも言える。この事実はトラックのドライバーとのやり取りからもよくわかる。普通は拒絶するようなことも、彼女は他人の欲求の理解度が高く、なおかつ彼に興味がないため、この欲求の充足に貢献することを選ぶ。このように解すると、最後のシーンがやけに長いのは、我々(観客、特に男)の欲求の充足を彼女が裏切る、という転換を見せたいからではないだろうか。同性同士の行為は、観客(特に男)が期待しているものでも予期しているものでもない。そしてまた、普通ならすぐ終わる場面、単にそうした行為があったことを示唆するだけで終わる場面、を異常に長くみせることで、我々(観客、特に男)の欲求の充足を彼女が初めて裏切る様が描かれる。2人の行為のシーンで男の声が入っているという事実はこの点をサポートする。もちろん、この見方は、彼女の他人の欲求の理解度が高い、という見方を取り除いても可能になる点であるが、そのような見方をすることで、よりこの行為までのシーンと当該のシーンの関係が鮮明に解することができそうである。「私、君、彼、彼女」のうちの「君」は鑑賞者のことを指しており、残りの3人はそれぞれの役に対応すると考えられるが、このように考えれば、この映画では観客も登場人物の1人として参画させられていることになる。だから、主人公は他者(彼、彼女、君)の欲求を理解し、彼、彼女の欲求は叶えつつ、自身の欲求も充足する(お腹すいた発言は示唆的である)。しかし、我々の欲求の充足は裏切るのである。この点に、本映画の最大の見どころがあるとともに、女性性についての重要な考えを含んでいると、主張したくなる。
個人的には、部屋を出るまでの意味不明な挙動が大好きでした。あと、女の人の身体の取り方、扱い方は、きっと男の監督じゃできないものなんだろうと思う。セリフが全くといっていいほどなく、独白調なのも世界観とあっている。
まあ結構忍耐を必要とする映画なのは間違いない。あと、監督本人が主人公と知って驚愕。あの若さでこんな映画撮るのどうなってんだ。
mochi

mochi