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帰ってきたヒトラーのRomaKumakuraのレビュー・感想・評価

帰ってきたヒトラー(2015年製作の映画)
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映画「帰ってきたヒトラー」(Look Who's Back)では、タイムスリップを遂げたばかりのヒトラーが、ドイツの広大な公園の中を困惑の表情とともに歩き続けるシーンがある。いかめしい軍服に身を包み、あの有名すぎるヒゲを携えた人物が現代のドイツを闊歩しているのは、観るものに事態の異常さを予感させる。果たして映画の制作陣はどのような緊張に包まれてあのシーンを撮ったのだろうか。映画の中では、現代にタイムスリップした、オリバー・マスッチ演じるヒトラーは、ドイツ市民からはやや好意的に受け取られるといっていいだろう。(それが映画の骨子であり、コメディの中で描かれる社会の危機を象徴するものであるのだが)公園を歩くヒトラーを大道芸か何かの演者だと思って思わず失笑したり、一緒に写真を撮ろうとヒトラーに近づく人がたくさん登場する。もちろんヒトラー自身はタイムスリップをしたばかりで、「今は何年だ、ここはどこだ、何が起こっているんだ」と道ゆく人に喚きかけるのだが、大道芸の一部だろうと思っている群衆は誰も気に留めない。スパイスの効いたブラックジョークだなと思って笑って済ますのがオチである。

しかし、現実ではそうはいかない。本当にドイツの地で、大勢の人が集まる公園でヒトラー扮した大道芸人がいたら、まず真っ先に警察を呼ばれるだろう。写真を撮る代わりに唾を吐きかけられてSNSで晒されるのがせいぜいで、炎上商法にもなり得ない。場合によっては身分もインターネットにばら撒かれ、社会から拒絶されるような扱いを受けてしまうかもしれない。それぐらい、ヒトラーが残したものは大きいのだ。

…ここまでが、映画の前半までを鑑賞した観客の感想になるだろうか。
もし、後半を観た後にこのような感想が頭に思い浮かぶとしたら、それはおそらく映画館の椅子の心地よさに50分間身を委ねてしまったの結果なのだろう。
何が言いたいのかというと、私が先に書き連ねた「帰ってきたヒトラー現実版」の結末は、Is it likely to happen?、つまり本当に「そうなってくれる」のだろうか、ということだ。

これから初めてこの映画を観る人もいるだろうからネタバレをするつもりはないけれど、あの結末を見た後では、私たちが現実世界で真にヒトラーを拒絶できているのか、ということには疑問を感じざるを得ない。

みんな最初は笑っていた。
「あり得ないこと言ってるなあ笑」と思ってテレビで流れてくる、現代に蘇ったヒトラーの演説に耳を傾ける。
面白いおじさんだと思ってテレビで彼が登場するのを心待ちにする人々が出始める。「ユダヤ人ネタは笑えない」と言っていたテレビ局の局長は、彼のスピーチに熱狂し、国民を扇動する行為を取り締まるべき検察の役人までもがヒトラーの演説のファンになる。映画を見た誰もが、やり過ぎな演出だなあと思っていたシーンだが、それが現実味を帯びてくるのは、公開から7年が経った今だろうか。

「我々は人の形をした動物と戦っている」とイスラエルの国防相が発言した。国際社会から多くの非難を浴びようと、彼と彼らが歩みを止めることはないようだ。彼の発言は、おそらく本音そのままなのだろう。人類の奥深くに眠るそれが、精神の昂揚とともに解き放たれた瞬間を私たちは目の当たりにしたのだ。彼の記憶の中には、多くのさめやらぬ思いがあるのだろう。
その記憶のことを思えば、彼にとっては、その想いは純粋そのものであるのかもしれない。

誰もが、心にしこりを持っている。
普段は口にも出さないし、これと言った機会がなければ自分自身でさえもそう思っていたことを忘れてしまうような、そんな感覚、自己の深い深い奥底から聞こえてくる衝動を、誰しも抱えている。
なぜそれが心に芽生えたのかはわからない。でも決してこの感覚は一時的なものではなく、むしろ自分の根本にあるように感じられる。
意志と倫理の力によって、常にそれは光を見ることはなく、今までに経験してきた様々な教育、社会通念で平時はなんとか抑えているけれど、限界状況に陥った時、それは姿を現す。そして今がその時なのだろう。

裏を返せば、この純粋さが我々にとって最も恐ろしい特性なのだ。
なぜなら、本能において純粋であるということは、行為においては拙速を意味するからである。

人間の目的意志が倒錯したものであっても、システムが一度起動してしまえば、システムは設計された通りの結果を出すように動く。たとえそれが「人の形をした動物」を、報復という名分のもとに殺戮するという行為であったとしてもだ。国防相の命令に従うのは軍人だろう。軍の縦割りのシステム、イスラエル軍という世界でも卓越する量の戦闘経験を積んだ軍のシステムが愚鈍であるわけがない。丁寧に指揮系統が構築され、上層部の意志が滞りなく実行まで保護されるように設計されているはずだ。

そんなシステムの始まりが、本能において純粋な精神を持った人間だったとしたら、不安を感じはしないか。私は、現代というのはつくづく恐ろしい時代だなと、件の発言を聞いて思った。

哲学者ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」という言葉で、アイヒマンをはじめとした、ホロコーストを引き起こす主体となった人々の集団構造を論じた。この言葉は数日前からXでよく見かけるようになった。みんな同じことを思っているのだろう。ヒトラーが第一次大戦の賠償金に苦しむドイツの人々を扇動し、「純血」というフィクションを成立させようとした、そんな狂気としか思えない意志たちの集合が、あのホロコーストに繋がった。
どんなシステムにも、それを稼働させるだけのエネルギーが必要だ。
ユダヤ人を殺害し続けたシステムの、そのエネルギーはどこから生まれたものなのか。もし、それが私たちの根本の奥深く、決して平時は姿を姿を現すことのない残虐さなのだとしたら…。

それでは、私たちに何ができるのだろうか。

「帰ってきたヒトラー」はこう言っている。

「なぜ人々が私に従うのか考えたことはあるか?
彼らの本質は私と同じだ
価値観も同じ」

このセリフの直後のシーンこそが、私たちが取るべき行動なのだと思う。
「絶対的な拒絶」である。

そしてこの映画の結末こそが、それでも止めることのできない、
社会の危機なのだ。
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