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わたしの自由について SEALDs 2015の小のレビュー・感想・評価

3.5
2015年9月、集団的自衛権を法制化した安全保障関連法が成立した。この反対デモを先導してきた学生団体SEALDs(シールズ)の法案成立までの半年間を追ったドキュメンタリー。

デモの現場映像が中心で、全編にわたってそれがとにかく長い。「集団的自衛権はいらない」などの、ラップ調のシュプレヒコールが頭に響き、観ているだけで洗脳されそう。

憲法学者がこぞって違憲だというような法案に反対するのはもっともだけど、現実問題はどうなの?という疑問を思いながら、はじめのうちは観ていた。

三分の一くらいのところで、高橋源一郎さんが登場し、彼らと意見を交わす。そこに至ってようやく本作は、民主主義とは、自由とは何かを問うドキュメンタリー映画なのだ、と思う。

高橋さんも言っていたけど、まず民主主義とは何なのか、定義が必要だ。私は、政治問題を真剣に考えることを避けてきたようで、そのたぐいの本を読んだかもしれないけど、あまり記憶がない。

そんな自分が言うのはおこがましく的外れかもしれないけど、先を考えるために敢えて言えば、民主主義とは自立した個人がお互いに尊重しあうことではないかと。

何かの本で読んで記憶に残ってるのが、ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉。

言論の自由を端的に示したのだろうけど、自分は多様性を認め、尊重する言葉と受け止めている。

自分とディスコミュニケーションな相手がいたとしても、その意見は、その存在は、尊重する。

多様性を認め、尊重することで、自分自身の発言や行動の自由が担保される。民主主義と自由は不可分なのかもしれない。

デモ隊の怒りの矛先は、安保法案そのものよりも、意見の異なる他者を尊重しているようには感じられない安倍総理に向かっている。

安部総理は国民に従う存在であるはずの権力を、国民を支配するように変えようとしているようにも見えたのではないか。

問題の核心は民主主義の危機であり、デモ隊が集団的自衛権に反対するのは、安部政権打倒に拘るのは、民主主義の根本を無視したような決め方だからだろう。

話は変わるけど、民主主義国家は自立した個人の意志の集合体であるとするなら、我々はそれを望んでいるのだろうか? 

『殿、利息でござる!』の原作本『無私の日本人』の次の文章がとても興味深い。

<江戸時代は、徒党というものが、蛇のごとく嫌われた。お上のお許しなく、三人以上がひそかにあつまり、ご政道について語れば、それは徒党であり、謀反同然の行為とみなされる。

徳川三百年の平和は、大名から庶民にいたるまで、将軍に支配されてるものが、横につながって、なにがしかを企てることを徹底して禁じることで成り立っており、江戸時代、「党」という言葉は悪事に近い響きをもっていた。

三百年、党を組まぬように、しつけられてきたこの国民が、明治になって政党の政治というものを、うまくのみこめなかったのは至極当然のことで、それはのちのちまでこの国の政党政治をみすぼらしいものにした。>

あれだけ問題になったにもかかわらず安保法案は成立し、安倍政権は倒れていない。学生団体SEALDsが始めたデモの規模が何十万人に膨らんだことは驚異的だけど、大多数の国民の意識は、徳川三百年をいまだに引きずっているのではないのだろうか。

大多数の人が自らよく考え、選びとった結果なら、それに従うのも民主主義だ。ただ問題なのは、なんとなく語らない、政治は自分とは違う世界であり語りたくない、という姿勢なのだろう。

結局のところ日本人はいまだに民主主義に、民主主義国家に慣れておらず、苦手なのではないか。

2015年のSEALDsの行動は若い人主体ということに大きな価値があり、苦手意識を解消してくれるかもしれない可能性を感じる。その答えは、戦後100年の2045年に出ているのかもしれない。
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