このレビューはネタバレを含みます
ドイツは戦後、一貫して戦争犯罪の追及に熱心だったと思い込んでいた。しかし、この「アイヒマンを追え」や「顔のないヒトラーたち」の映画が明らかにしたのは、ドイツでも経済復興に邁進し、過去のことは忘れたいという状況だったということである。映画は、その集団忘却をそれではダメだと歴史の事実を直視し、若者が未来を考えることができるように尋常ではない努力をした人たちを描き切る。
歴史のなかから、頑張れよとエールを送ってもらっている気がする。
1950年代後半のドイツの話。
州検事長のフリッツ・バウアーは、アイヒマンなどナチスの幹部を刑事裁判で裁くべきだと執念を燃やしている。しかし、連邦刑事局も上席検事も元ナチ親衛隊。捜査機関も政府中枢もナチの残党に占められていて、捜査は全く進まない。それどころか、捜査のファイルがバウアーの机からなくなったりする。部下も残念ながら敵なのだ。
バウアーは言う。「執務室を一歩出ると敵ばかりだ」と。そんななか、アイヒマンが、アルゼンチンに潜伏中という手紙を受け取る。ドイツの捜査当局は、妨害しかしないため、イスラエルに渡り、モサドに頼む。国家反逆罪の行為なのである。
アイヒマン逃亡しないようドイツに帰ると「アイヒマンはクエートにいる」と嘘の記者会見を行うバウアー。様々な妨害と困難に遭いながら、突き進むバウアー。
彼はナチスから逃れたデンマークで、強制収容所に入れられ、「ナチスに協力する」という署名にサインし、出所する。彼の戦後の行為は、自分自身への贖罪でもある。
歴史に責任をとるというのはどういうことか、過去に向き合い、未来を開くとはどういうことか、若者に未来を作って欲しいとはどういうことかということを教えてくれる。
そして、アイヒマン裁判一つをとってもこんなにも努力した個人がいたということである。
当たり前だが、作りたい社会、そして、未来は、人任せ、棚ぼたではやってこないということである。
バウアーは、ユダヤ人、社民党員、同性愛者である。
バウアーは、デンマークにいるときに、「男娼」(こういう言葉を使っていいのかわからないが)と一緒にいるところを逮捕されている。このことが記録に残っている。
元ナチスで、バウアーの捜査を妨害しようとしている政敵たちは、その記録を知り、大喜びする。「下半身ネタはスキャンダルだ」と。
ドイツは、何と1994年まで、同性愛者の性的交渉を刑事犯罪としていた。同性愛者であるというのが、ものすごい弱みになっているのだ。本当の自分であることを明らかにし、自分に正直に生きることがなぜ犯罪になるのか。なぜそれがスキャンダルになるのか。
どれだけの圧迫と孤独を抱えて、バウアーは闘ったかと思う。
映画のなかで、同性愛がどう扱われているかは、映画評のなかで大きなテーマである。「ハーベイ・ミルク」「ミルク」「ブロックバックマウンテイン」「パレードへようこそ」「アデル、青は熱い色」など。
一度そのことも書いてみたい。
(福島みずほのHPより一部変更して転載)