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アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男のodyssのレビュー・感想・評価

4.0
【戦後ナチ追及の複雑な流れを知ることができる佳作】

原題は"DER STAAT GEGEN FRITZ BAUER"(国家対フリッツ・バウアー)。

ナチ時代に多数のユダヤ人を絶滅収容所送りにしたナチ親衛隊中佐アドルフ・アイヒマン。彼は戦後は南米のアルゼンチンに逃亡して偽名で生活していたが、イスラエルの諜報部に拉致されてイスラエルで裁判を受け死刑となった。

ここまでの事実はわりに有名で、その裁判の模様を克明に綴ったハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』も2012年に映画化され、広く知られるようになった。

アイヒマン自身は、中佐という階級からも分かるように中間管理職であり、ヒトラーやゲッベルス、ヒムラーやゲーリングのような大物ではない。ただ、大物は自殺するなどして裁判を免れたのに対し、アイヒマンは南米に逃亡中のところを捕まって裁判にかけられたため、現在は実際の職分以上に大物イメージで捉えられがちである。

それはさておき、そのアイヒマンがイスラエルの諜報機関に捕まったのは、実はドイツ側からの情報提供があったからだったということが近年になって明らかになった。ただし、当時のアデナウアー保守政権による情報提供ではなく、ヘッセン州の検事長だったフリッツ・バウアーによるものだった。

フリッツ・バウアーは日本では知名度が高くないが、ユダヤ人でナチ政権成立以前はドイツで判事をしており、社民党支持者だった。社民党はナチ政権成立以後は活動を禁じられてしまうのだが、バウアー自身もユダヤ人なので、外国(最初はデンマーク、デンマークが第二次大戦でナチ・ドイツに占領されたあとはスウェーデン)に亡命して反ナチ活動に従事した。大戦後は上述のようにヘッセン州の検事長という職務に就いたが、戦後のアデナウアー政権がナチの犯罪追及に不熱心なことに疑問を感じており、ひそかにナチ犯罪者の情報を集めていた。

彼の姿は、2015年に公開された『顔のないヒトラーたち』にも登場する。あの映画では古株の検事がナチ追及に不熱心なのに立腹してみずから追及に乗り出す青年検事が主役だった。あの映画では、青年検事自体はフィクションだったが、その青年検事を支えていた検事長のフリッツ・バウアーは実在の人物だったのである。

『顔のないヒトラーたち』ではバウアーはあくまで脇役に過ぎなかったが、本作品ではバウアーが主役であり、ユダヤ人という出自を揶揄する人間が検察内部にすら少なくなかった1950年代の西ドイツで、周囲の無理解や妨害にもめげずにアイヒマンの居所を突き止めようとする様子が克明に描かれている。

また、バウアーは実は同性愛者でもあった。現在なら同性愛者であっても先進国ならそれを理由に公的な批判を受けることはあり得ないが、1950年代の西ドイツにあっては同性愛行為は犯罪であり、刑事罰の対象だったのである。ちなみにドイツで同性愛を処罰する法律が廃止されたのは、何と20世紀も末の1994年のことだったという。

話を戻すと、バウアーがイスラエルの諜報機関に情報を提供してアイヒマンを捕縛させたのは、あくまでドイツに移送してドイツで裁判を受けさせたかったからだった。ドイツの諜報機関がそうした動きに出ることはまず考えられなかったのであり、下手をするとそういう行為自体が国家反逆罪に問われかねなかったのである。念のため、アイヒマンがドイツから国家反逆罪に問われるのではなく、アイヒマンの悪を追及するバウアーがドイツから国家反逆罪に問われかねなかったのだ。

結局、アイヒマンの裁判はドイツでというバウアーの意向は通らなかった。アデナウアー政権は、ドイツの武器をイスラエルが輸入する代わりにアイヒマン裁判はイスラエルで行うという取引でこの一件を終わらせた。1950年代から60年代初頭の西ドイツは「過去を反省」するどころではなかった事実がここから分かる。

そうした戦後史の複雑な流れを、この映画から知ることができる。
貴重な佳作と言うべきだろう。
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