Garararara

遠い夜明けのGararararaのネタバレレビュー・内容・結末

遠い夜明け(1987年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

エンディング部分以外は158分の長さを感じさせないくらい見入っていた

我々黒人の最大の問題は、白人の差別より自分たちの劣等意識だ

人生の苦難に屈服する事なく、こんな状況の中でも持つべきです。明日への希望を

黒人の子は利口だろうとバカだろうとこういう世界に、生まれついて死ぬのだ

警察署長始め、警視総監も黒人排他
“恥を知らぬテロリズム”

小林多喜二の獄中死を思い出す


身の安全を守るために特に名を秘した2人の登場人物を除き、この映画はすべて事実である

原作 ドナルド・ウッズ著「ビコ」「トラブルを求めて」

1975年11月24日
南ア共和国
ケープ州 クロスロード黒人居住区

ラジオ南アフリカ英語放送
M・ランドル
「労働許可証を持たぬ者は出身地へ強制送還されます。住民の抵抗はなく、不法居住者は自発的に警察に出頭しています」…バラックの破壊、放火、逮捕連行の映像

NIKON

“スティーブ・ビコ”のポスター

ウッズ…41歳、南ア・デイリー
“スティーブ・ビコ 白人差別主義者”
ランペーレ医師
「良心のある新聞記者なら彼に会いに行けば?」
「ビコは今からでも南アを救える数少ない1人よ。彼はウイリアムズ・タウンにいるわ。拘束されてるの」

キング・ウイリアムズ・タウン レオポルド通り

「君の思想は危険だが、拘束令には反対だ」「リベラル派か」「悪くない肩書だが今のは皮肉らしい」

ZANEMPILO
「黒人による黒人のための病院。院長は黒人女医だ」

「我々黒人の最大の問題は、白人の差別より自分たちの劣等意識だ」

「白人社会の型にはめる気かね?おれはおれだ。殴られ、投獄され、殺されても。君らの望む人間に改造はできん」

段ボール箱に入った密告屋
「自分もこんな風に扱われたいか?」

“恥を知らぬテロリズム”
「黒人は苦しい暮らしに耐えてます。政府の出方もひどい。その苦しみを感受する事はありません。対決するのです。人生の苦難に屈服する事なく、こんな状況の中でも持つべきです。明日への希望を。自分たちと、祖国への希望です。それが黒人運動の訴えているものです。白人は無関係なのです。黒人が目覚めて自らの人間性を確立し地球上に、正当な位置を得るのです」

固く操作
おむつの中に書類

1977年8月18日
逮捕、収監

1977年9月11日
「直ちに専門医の診断を」「芝居では?」「足の裏の伸筋反応は、脳障害の可能性を示しています」「だが芝居では?」「意志で反射神経は操作できません。腰動脈の血液検査は、脊髄液中の赤血球過剰を示しています。それも、大きな脳障害を示しています」「食事は与えたのか?排便は?」「今日はまだ」「一刻も早く専門医に」「プレトリアの警察病院へ」「1100キロの道のりだぞ」「ここの病院は逃亡の危険がある。警察病院へ」
…脳障害があるのに、1100キロの道のりを荷台で揺られながら搬送→更に脳にダメージ

プレトリア 1977年9月12日
スティーブ・ビコ 勾留中に死亡
「ビコの死はショックでした。死因はハンガーストです」「議長!警視総監が民主的である事に賛辞を呈します。囚人に餓死する民主的権利を与えられた」「死は誰の子でも悲しいものです。私自身の死もきっと悲しいでしょう」

「あなた…。やつらに何をされたの?」

葬儀
「私は現体制を憎む。だがビコの死を悼む白人の方々は歓迎します。ビコはこの国の将来を信じそrを我々に教えました。その夢は必ず実現します。あらゆる者が人間と認められ神の子として平等とされた時に!その日を待ち、反感を育ててる人種の壁がとり払われ、そこに友情と愛が生まれる時をマチましょう。ではご一緒に“アフリカの歌”を。スティーブ・ビコの愛した歌です」
歌詞の意味
“神よ アフリカに祝福を
我らの祈りを 聞きたまえ”
https://youtu.be/3PVH_w9pCho?si=8lIEUa4jSCwGUJRV

ウッズに拘束法
国家保安条例に準じて君を拘束処分
今後5年間、同時に1名以上の人間と接触してはならず、同じ部屋に同席してはならない
ただし肉親は除外
私的にもおおやけにも文章を書いてはならず印刷所、出版社への立ち入りは一切禁止
イースト(東)ロンドン区を出てはならない

「クルーガー(警視総監)は異常だ」
“ビコ派弾圧 審問会近し”

ビコの遺体の写真
警察没収
14セットを海外の通信者へ
「僕を逮捕してもムダだよ。今や全世界が審問会のなりゆきに注目してる」「僕には子供が2人。将来が心配だ。君ならどうする?」「僕にも子供が…。だが白人が黒人の支配する時代は終わった。時代は変わる。友好裏(り)に?それとも流血か。子供たちのために友好を祈る」「はっ、ビコみたいな連中と?」「それなら最高だ」

1977年 大晦日
午後9時25分 マセルまで580キロ

「調査の結果を発表する
1つ、死亡したバンツー出身のスティーブ・ビコは、黒人で30歳。9月12日に死亡。死因は脳の損傷と腎臓等の併発機能障害
2つ、彼の死が第三者の加えた、違法行為によるものである事を示す証拠は何もない」

スタターハイム
マセルまで520キロ
警官「村の者から聞きました。クイーンズ・タウンへ?ちょうどそっちへ行くんです」「それはありがたい」「伝導協会へ?」→護送車(笑)

午前2時30分
マセルまで400キロ
黒人逮捕者

神父と合流

午前5時20分 テレ川
「奥さんへの電話番号?」「10時きっかりです。戻って。10年の懲役ですよ」
「万一の時は国人の所へ。ビコの名を言えば助けてくれる」

川を渡る途中、午前6時5分

「雨が降らなければ今夜川を渡れるだろう」「待てない。今すぐ渡りたい」
16キロ先にテレ橋
偽造パスポート
「俺は信用できるよ。車もある。新聞の編集長をしてるドナルド・ウッズが脱走を?野ブタもクソたれて驚く!きっと逃げられるよ。野ブタもクソたれるよ。わっははは、総監もクソたれるよ!首相もクソたれるよ!警察長官もクソたれる!」

国境
「原稿をなくすなよ」「いつか戻るよ。一緒にビールを」「待ってるよ」

レソト郵便局の車…モーゼ
「鍵が?7時だから開くはずです」
「10時にマセルで礼拝が…」
「荷物を中へ。車でお送りします」
「私はモーゼです」「ふさわしい名前だ」

「禁止令を受け入れない事が重要だ。最近は南ア語を拒否する子供もいる。心にかけられてた鎖を解き放っているのだ」

「やった」
嬉しさのあまり民族の踊り「うまいだろ?」

チャーリー…お隣に

「政治亡命のお願いに」

「オー、ドナルド!ちょうど着いたところよ」
「約束の場所に無事着いた。待ってるよ」

「ビコの友達は我々の友達です」

デモに発煙筒と威嚇射撃ではなく、直接射撃
逃げる子供にも狙いを定めて射殺

ソウェトのこの“暴動”で、死亡した学生は700名、負傷者は4千人を超えた

「黒人の子は利口だろうとバカだろうとこういう世界に、生まれついて死ぬのだ」

1962年の議会法案で南ア政府は、裁判を行わず拘置措置をとる事を合法化した
以下は拘置中に死亡した者の、公に発表された死因である
1963年9月5日 L.ヌグドル “首つり自殺”
1963年9月19日 B.メルホープ 公式説明ナシ
1964年1月24日 J.ティティア “首つり自殺”
1964年9月9日 S.サルージ “7階から転落”
1965年5月7日 N.ガガ “自然死”
1965年5月8日 P.ホエ “自然死”
1966年日付不明 J.ハマクワヨ “首つり自殺”
1966年10月9日 H.ショネイカ “自殺”
1966年間11月19日 L.レオン・ピン “首つり自殺”
1967年1月5日 A.ア・ヤン “首つり自殺”
1967年9月9日 A.マデイバ “首つり自殺”
1967年9月11日 J.ツバクエ “首つり自殺”
1969年2月4日 N.クゴアテ “シャワーで転倒”
1969年2月28日 S.モディパネ “シャワーで転倒”
1969年3月10日 J.レンコ “首つり自殺”
1969年6月17日 C.マエキソ “自殺”
1969年9月10日 J.モナクゴトラ “血栓症”
1969年9月27日 A.ハロン “階段から転落”
1971年1月21日 M.クセシラ “自然死”
1971年10月27日 A.テイモル “10階より転落”
1976年3月19日 J.ムデュルイ “椅子にぶつかり転倒”
1976年8月5日 M.モハピ “首つり自殺”
1976年9月2日 L.マズウエンベ “首つり自殺”
1976年間9月25日 D.ムバサ “首つり自殺”
1976年10月1日 E.ムゾロ 公式説明ナシ
1976年10月14日 W.トシュワネ 公式説明ナシ
1976年11月18日 E.ママシラ 公式説明ナシ
1976年11月26日 T.モサラ 公式説明ナシ
1976年12月11日 W.トシャジバネ 公式説明ナシ
1976年12月14日 G.ボーサ “階段から転落”
1977年1月9日 N.ヌトシュンツア 公式説明ナシ
1977年1月9日 L.ヌドサガ 公式説明ナシ
1977年1月20日 E.マレル 公式説明ナシ
1977年2月15日 M.マベラネ 公式説明ナシ
1977年2月15日 T.ジョイ 公式説明ナシ
1977.年2月22日 S.マリンガ “自然死”
1977年3月26日 R.クホザ “首つり自殺”
1977年6月5日 J.マシャバネ “自殺”
1977年7月7日 P.マビジャ “6階から転落”
1977年8月1日 E.ロザ 公式説明ナシ
1977年8月3日 H.ハフェジェー 公式説明ナシ
1977年8月5日 B.エムジジ 公式説明ナシ
1977年8月28日 F.モガツシ “てんかんの発作”
1977年9月12日 S.ビコ “ハンガースト”
1977年9月12日 B.マラザ “首つり自殺”
1977年11月9日 M.ジェームズ “逃亡を試みて射殺”
1977年12月20日 M.ノブデュラ “自然死”
1978年6月10日 L.タバラザ “5階から転落”
1979年10月9日 E.ムゾロ 公式説明ナシ
1980年9月10日 S.ヌズモ “自然死”
1980年12月20日 S.マタラシ “挟首自殺”
1981年9月17日 M.ムグキュエト 公式説明ナシ
1981年11月12日 T.ムオフェ “ケガにより死亡”
1982年2月5日 N.アゲット “首つり自殺”
1982年8月5日 E.デイパレ “首つり自殺”
1983年3月7日 T.ムヌダウェ “首つり自殺”
1983年7月5日 P.マラトジ
1984年1月20日 S.シクド “自然死”
19884年7月4日 M.シペーレ “自然死”
1984年8月5日 E.マセサワ “首つり自殺”
1985年3月1日 T.コロツソアネ 公式説明ナシ
1985年3月29日 B.ムビュラネ “自然死”
1985年5月5日 S.ムツイ “てんかん”
1985年5月6日 A.ラディツセラ “パトカーから転落”
1985年5月12日 M.ラザク “自殺”
1985年7月4日 J.スボグター “頭部の傷”
1985年7月4日 M.ムゲルス “銃弾による傷”
1985年8月16日 S.モコエナ “首つり自殺”
1986年1月1日 L.バコ “同室者の犯行”
1986年4月5日 M.クツメラ 公式説明ナシ
1986年4月11日 P.ヌチャバレン “心臓発作”
1986年4月11日 E.ヌゴマネ “逃亡を試みて射殺”
1986年5月12日 A.シリカ “逃亡を試みて射殺”
1986年6月1日 M.ボルティニ “てんかん”
196年9月11日 J.マハラング “逃亡を試みて射殺”
1986年10月1日 M.ソンジェルワ “ぜん息の発作”
1986年10月22日 X.ジェイコブス “首つり自殺”
1986年12月15日 B.オリファント “逃亡を試みて射殺”
1986年12月23日 S.マルーレ “てんかん”
1987年3月26日 B.マショケ “首つり自殺”

1987年6月11日に非常事態令が発令されて政治犯に関する消息は発表されなくなった

ドナルド・ウッズ著の「ビコ」は1978年に出版
ウッズ夫婦はこの映画の政策顧問を務めた
制作者はセントラル・フィルム・ラボと、ジンバブエ政府とその国民の協力に感謝します

20240418-19 0417
Garararara

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