かなみ

5時から7時までのクレオのかなみのレビュー・感想・評価

5時から7時までのクレオ(1961年製作の映画)
3.9
ヴァルダ特有のコメディや大道芸を通した大衆への嘲笑のようなものを感じた。作り物の喜劇性へのまなざしの冷徹さを、ヴァルダは非難しているのだろうか。断定的で単調な世界へのわずかな羨望と、それの造り手への軽蔑にも似た視線のアンバランスさが独特の空気感を土台作っている。1961年に作られたとは思えない瑞々しさ、普遍的な人々の愛おしさ。

彼女の映画の人々の眼差しの、時折見える腹の底が冷えるような静けさは何なのだろう。私たちはとても恐ろしい世界で共生しているのかもしれない。キアロスタミの「ホームワーク」にあるあの寄り添いと温かみとは全く異なる、人々のパーソナルな境界線を定規とペンで引かれているような感覚。
ヌードモデルをしている女性のセリフ「皆は私以外のものを求めているの 形とか 着想とかをよ」はまさしく人と人との距離感を如実に表している。裸であろうともぼんやりとしているだけで、案外苦しくないものだ。みなそんなものである。音楽と人ともまたそうだ。文字や絵と異なる音楽の突き抜けた受動性の残酷さはクレオを傷つけた。カフェで人々をまるでいじめっ子のように眺むクレオの様子から、彼女の繊細さと、世界との距離感の勘違いのようなものが見て取れる。割れた鏡、殺人事件による心のさざめき。タクシー運転手のバックミラーの印象的なショットも素晴らしい、男は一瞥もせず淡々と運転する。純粋で敏いすきっ歯のお喋りロマンチストのアントワヌとの公園での会話で、矮小で後ろ向きなクレオの弱さが露呈する。立場や見栄えの華やかさはクレオが圧倒的だが、それに魅了された男がその実、人間性に富んだ篤実な人間であることが明るみになるにつれてクレオの空虚さが見えてくる。残忍な演出だ。彼と出会うことでタクシーからバスに移動手段を変えるのは、個人的で内向的なクレオの行動パターンを社会的で大雑把だが、合わせる事で獲得する自由へを目を向けさせる。アントワヌとのバスの会話から急速にクレオの人間性が開示される。花が咲くようにフロランスたる優雅さと美しさが現れる。

病気を前にして机上の占いに一憂していたクレオが、怖くないわと言いながら前を向いて歩く。これが彼女にとっての成長譚と言うならば酷である。クレオは、ひとえに良き友人に出逢えたという幸福に恵まれたのだ。
かなみ

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