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Notes On The Circus(原題)のニューランドのレビュー・感想・評価

Notes On The Circus(原題)(1966年製作の映画)
3.6
✔【ジョナス·メカス生誕百年】①『サーカス·ノート』(3.6p) ❨肖像❩②『アンディウォーホルの授賞式』(3.5p) ③『ゼフィーロ·トルナー、あるいはジョージ·マチューナス(フルクナス)の生活風景』(3.7p) ④『ニューズリール:‘営倉’のジョナス』(3.2p) ⑤『ジョナス』(3.2p)❨遊歩者❩ ⑥『ウィリアムズバーグ、ブルックリン』(3.3p) ⑦『カシス』(3.2p) ⑧『旅の歌』(3.3p) ⑨『アビニヨンの歌』(3.4p) ⑩『富士山への道すがら、わたしか見たものは…』(3.4p) ❨マリー·メンケン❩⑴『庭園の散策』(3.4p) ⑵『ノートブック』(3.4p) ⑶『GoGoGo』(3.4p) ⑷『ライツ』(3.5p) ⑸『歩道』(3.2p)▶️▶️

 恵比寿映像祭は始まって10年を軽く越えるのだろうが、こんな頭でっかちの、一般支持も少ない催しがよく続いて来た気もする。勿論、学芸員?達は真面目な人ばかりなのだろうが、見せる·魅せる事を理解した商売っ気ある人が必要なのだろう。それでも、Bリヴァース·小森·Bラッセル·アノーチャらは、ここで発見したり、注目し直したりしたが、今回愈々手詰まりか。改革者としてより、21Cになっての大家となったメカスを、大きくも半端に取上げるとは。見る気はなかったが、大雪予報に屋根のない所を歩き回るのが嫌で予定変更、前日に急遽予約を入れる。後の祭だが此れだけ1500円の高い料金は解せない。今回、作品の善し悪しとは別に興味深かったのは、長い4時間の序盤のプライベートな素顔のメカスが窺われるパートだった。
 それでもトリを飾る①は、状態も美しく、闇の中に白や赤らの原色の衣装·肉体·馬らの跳梁·躍動感を、リズミカル音楽とリンクさせ、ズレ揺れブラしてのコマ撮り、速いパンやO·L、スローシャッターやボカしての太め(長め)線、で捉えてくサーカス光景〜空中ブランコ·白馬·ピエロら〜捉えで、纏った詩とリズムを奏でる、は無条件にて美しい。
 それらの手法に、歩きか車窓とかでカメラ主体も動き、絞りか露出か自然そのものが(背景)白さを変えてくのがメカスの代表スタイルなら、旅する自分が主人公の⑧~⑩は、まさにそれ。⑧は、パゾリーニに逢う前にのアッジシから始まり、欧州や中近東の印象的都市への異邦人としての参入観察記録で、作者の分身か若い男へのフィットも入り、サイレントやモノクロのパートもあり、行き交う人々·流れる自然や街並みの光景とそれに対する意識の揺れ·発見が捉えられてく。⑨はより丁寧に、ホリスやウーナの家族も入り、映画に対する心構えや未来も語られて、好ましい。⑩の日本編は、日本のメカスを自認·公言の志郎康(個人的にはメカスのセンスと対極で·愚鈍の化物的な印象しかないが)ら互いに知りあった人らも絡む、より多彩な場と状況がうねってく。
 比較的初期の②⑥は、カメラの動きとその操作は目まぐるしくもなくモノクロでもあり、②はいかにも‘ファクトリー’という、上下や関係も、慇懃かクール·か判らない、厚顔でスマートな面々の、18コマ撮りを16コマで映したようなややスローでの、受渡しや受取りを囓る様子の、ズームとフィルム切れだけでの捉えで、その醒め方を逆に充実空間に変える被せる選曲のセンスが素晴らしい。ウォーホル色の方が強いか。⑥は1950年代頃か、ブルックリンの市井を、今の映像情報感覚でいうと、のろく静かすぎるうごめきと感じてくが、その長めで変化ない撮影も含め、本当の人間の存在も感じてくる。⑦はカラーの大Lの侭パンを時たまの、灯台辺と海上を小さい人らと船のチョコマカ·コマ撮り押さえで捉えて、画面明るさ変化も、何か味を感じ来る作。
 先に述べた今回の収穫、いい悪いは別にして、作者の比較的若い時代(40歳頃から50代)のプライベートな外観と心情が直に伝わりくる③と⑤は貴重だ。③のマチューナスについてはメカス作品等で名前だけしか聞いた事のない存在だが、この作で語られる、2人とカメラの距離·関係は信じ難い程、自然に叶い·かつその温度·熱度は、観る側のそれに近い存在を想起させる。基本的に流れ前後し、絵と語りはズレ、中心人物だけではない周囲を含めた係わった世界全体が現れくる。その中で紡がれ、全体を括る2人の目に見えるものを超えた繋がり·暖かさ·強さの源が現れてくる。2人は趣味も違い誘われてもいつもツルんでるわけではないが、同郷とその言語が2人の絆を内から強め続け、病の末期には体か心が寄り添ってて、マチューナスはメカス晩婚に倣い、死期が近づいて結婚する。
 真面目を表に出さず、病の苦痛時は身を隠し、常に物事を冗談のように捌き、心の開放を広げるマチューナス。メカスの妻子·ホリスとウーナも彼への隔てない親しさは特別。レノン·ヨーコ·ウォーホルらもこの場のメインは誰なんだというくらい出てくるが、それらを引っ括めた全体が、マチューナスとの(精神)世界なのだ。先に述べた亡くなる1年間の70年代半ばから、映像は時に遠い昔に遡り、語る内容と映像はまるでその時別個になり、ズレてても平気の、至福の映像。
 メカスが作家ではなく、被写体として写る2作も、作品として云々以上に眩しい。名作『営倉』をステージに入ってステディカムみたいな意外とかなり重装備でカッチリ撮ってるメカスをまた別の者がハンディカメラを振り回して撮っての④と、その『営倉』出来上がりや他自作の一部を交えての、プライベートな作家としての活動や、批評家としての媒体関り·保存収集や上映の運動オーガナイザーとしての日常に着いて廻る⑤。50歳過ぎからか、若い時は点景としてのメカスしか観たことがなかったので、40代初めだろうか、颯爽とした歩き振りと身のこなし·周りの知らない人々ともフランクな話しぶり。カメラ構えて速い連続コマ押し·辿々しいのは営業用か意外に流暢な英語、目も姿勢もクリッ·シャキッとして、単純にダンディで惹き込まれる。「多バジェット·大企画で硬直化·自由を失った映画にたいし、遊びながらの感覚で自由に制限なく撮る」「元々詩人だが、異国への亡命、少しでも早く深く溶け込む為にカメラがここでの言語となった」メカスが何時も書いてる事をナマで喋ってる。作品としては陰の部分が少ないが、こんなにカッコいいメカスの激ってた時代の像を觀れただけで充分。
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 日常光景の点と線を押さえ取り上げての、瑞々しい感覚·印象の創出、確かにメカスとメンケンは似たスタイル下にいるのかも知れないが、メンケンは名を耳にしたり、一部作品を観た事もあったが、際だって印象に残ってない。こうして纏めて觀れるのも貴重か。あくまで自分の世界の拡げる手段としてのタッチ採用のメカスに対し、メンケンは純粋に映像作品の自己完結を求めている。
 ⑴の、庭園の、花·芽·茎·鉢らの植物群の、全体の押さえ流れのパン·移動の果てなさから、ピンポイントの個々の力を強いインパクトの視覚性で押さえ続けて、粘りっけの嫌味ない執着力は見事。⑵辺りから、コマ撮りやカメラの揺れ動きが世界をより動感持って捉えてく。カラーとモノクロパート取り混ぜ、図形オブジェの抽象+手触りアニメ風まで進んでく。⑶はコマ撮りと速度と距離感ある再現可能ない移動力で、時にO·Lも加え、街中の汎ゆる光景·人と人造物と自然を切り取り、描き尽くしてく。ここでも少なめもモノクロパートがある。代表作の⑷は闇夜の、個々も全体も様々な形の電光源の多色集合体のチカチカ生き物ぶり、建造物の形に沿うネオン列らを、コマ撮り·手ブレ·(スローシャッター感像の絡まり)伸び·カメラ傾け廻る舞踏力·抽象異次元化、等でトコトン愛おしく捉え抜く。圧巻以上に繰り返すが愛おしい。⑸はコマ撮り·移動続きを、低く様々な石の形·触感で敷き詰められた舗道面にカメラをトコトン向け続ける。
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