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朝が来るのohassyのレビュー・感想・評価

朝が来る(2020年製作の映画)
3.5
正直に言えば、河瀬直美監督作品はあまり観たことがない。
いや、ほとんど見たことがない。
劇場で観た記憶のある作品は、カンヌを取った「萌えの朱雀」くらいだと思う。
本作を観るきっかけは、中学生にして妊娠する少女・ひかりを演じる主演の蒔田彩珠さん。
地方都市に住む中学生時代から、出産後家を出て都会(東京?)に流れ着き、必死に生きながらえようとする女性の姿までを演じている。
「重版出来!」から「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」と大注目してきた女優ですが、本作でもまた魅せます。

不妊に悩む栗原夫妻と、図らずも子を宿してしまった幼い少女・ひかり、その親。
さらには養子縁組を支援するNPO、そこで出会う似た境遇の女の子たち。
ステレオタイプなキャラクターが揃った驚きの少ない物語だと感じた部分もあるけれど、構成の組み立て方には感心させられるものがあった。

映像というものは基本的に、主人公の視点で物語が前に進んでゆくもので、観客は身を委ねるだけである。
時間は不可逆であり、始点から終点へと運ばれるがままだ。
しかし時々そういった映像的時間の制約をなんとか乗り越えようとする、野心的な作品がある。
例を挙げれば枚挙にいとまがないけれど、パッと思いついたものだと「パルプフィクション」とか。
時間軸的には終わった物語がまた始まり、無限ループに迷い込んだような感覚に襲われるような、奇妙な爽快感に包まれる作品だ。

本作はそういったトリッキーな構成ではないけれど、映像的な時間の制約を越えようとすることで、不妊に悩む裕福な夫婦の立場と、妊娠「してしまった」少女、両方の視点を、なんとか公平に映し出そうとしているように見える。
原作がどのような構成になっているのかは分からないけれど、題材が題材であるだけに決して偏ってはいけない、という監督の考え方に触れたような気持ちになる。
ドキュメンタリーをホームにする作家ならではの考え方なのかもしれないし、ご自身が養子であると言うことも関係しているのかもしれない。

その構成の妙を表現しようとしたパンフレットの作りも丁寧なものだ。
順行で読むと栗原家の紹介から始まるのだけれど、裏表紙から開くとそこにはひかりの紹介があって、どちらの人生も並行であることを訴えているようで、とても良かった。

本作は、妊娠「してしまった」と前述したように、中学生が妊娠したことを人生の失敗と捉え、その事実を消すことでやり直そうとする姿が、苦しくも痛ましく描写される。
中学生が子供なんて育てられるわけがない、養子に出せばまた高校生からやり直せる、というわけだ。
僕は今や二児の父親なので、やはり「うちの子らが幼くして子を宿したらどうする?」という思考が強くなるのだけれど、このレビューを考える中である程度明確に答えのようなものにたどり着くことができたように思う。

もし自分の子らがそのような状況になったら、それが息子であれ娘であれ、相手の家族を含めた関係者にこう提案したい。

この新しい命は2人の子供なのだから、2人が親として育てる方がいいだろう。
しかし2人にはまだ生活力が無く、生活のために学校を中退して働いたとしても将来に渡って苦しい生活を余儀なくされる可能性が高い。
だから、2人がなるべく望み通りの教育を受け、社会に出てある程度の生活力を得るまで、我々、つまりその2人の両家が協力して育てればいいんじゃない?

今から子供が1人くらい増えても、両家が力を合わせればちゃんと育てられるだろう。
小学校を卒業する頃までには2人も一人前の大人になって、新しい家族としてやっていけるようになるだろうし、大した負担では無いように思えるどころか、新たな希望になる可能性だって大いにある。
自分の子が間違いを犯したその原因を相手に求めていがみ合うのは生産性が低いし、そもそも「間違いである」という思考の入口を考え直すだけで、スッと解決できることだったりする。
血のつながりが家族だというのなら、両家はもうその命を介した立派な家族なのだ。

そんな感じの可能性を提示することができれば、若い2人にも選択肢が生まれるし、考える余裕も持てるだろう。
その上でやっぱり育てなくないとなれば、生まれてくる子供のためには養子が良いかもしれない。
そういう意味では本作で描かれる制度は、大きな社会的意義があるだろう。

観ている間、「ひかりは1人なのだし、栗原家と一緒に生活すればいいのに」と思っていたのだけれど、朝日が登るラストでは少しだけその思いを掬い取ってもらえたような心持ちになった。
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