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さすらいのmochiのレビュー・感想・評価

さすらい(1975年製作の映画)
3.8
「都会のアリス」「まわり道」から続く、ヴェンダースのロードムービー3部作の最後の作品。すごい評価高いから期待しすぎたからか、めちゃくちゃ良いとは感じなかった。3部作の中だと、「都会のアリス」の方が好みかな。映画館めぐりをして、映写機の修理等をしていくという設定は、映画そのものについてのメッセージと、映画の中で何かを象徴する役割を担ってるんだと思うけど、そこのところが今一つ理解できてないな。映画についての最後の館長のセリフは、おそらくヴェンダースが言いたいことではあるんだろうけど。「最高の映画を観せてやる」というので、永遠と同じcm的なものを流すのは、そこからの連想により紡ぎ出される何かが映画経験を構成するのであって、画面上の何かを直接受け取るのは映画経験ではないということだと差し当たり理解できる。そうすると、最後の館長の相手を騙す映画しかない、という発言もこの意味で理解可能となる。問題は、ストーリー上で映写機の修理をしていくということが、何を表現しているかなんだけど、これは他者(フィルム)に対して働きかけて、助言などを与えることができる(修理することができる)けど、自己に対しては十分に働きかけたり、理解する勇気がないということなのかなと思いました。最後にビリビリに回る予定の映画館をやぶるのも、この解釈をとれば、館長のセリフを受けて、自己の修復から目を背けるのはやめよう、と差し当たり理解できるし。
安全地帯から、何かを的確にアドバイスしてくれる人によって、傷ついた人が変わっていく映画はたくさんあるが、ロードムービー3部作に共通して面白いのは、そのようなアドバイスをくれるような、一見物事を理解している人物の方が、むしろ影響を受けて変化していくところを描写しているところだと思う。その変化をもたらす対象が、「都会のアリス」では子供であり、「まわり道」では女と老人であり、本作では、男である、となっていると。ワゴンに乗って国中を回るというのは、自由なように見えて、常に自己のスペースが確保されているという意味で、最も内向的な性格を表している。
一方、離婚してきた男の方は、むしろ自己と向き合おうとした結果、ひどく傷ついている。彼は自分の父親にならないようにしているし、1人の女を愛せなくても、愛するようになれば良いと説く。自分自身と向き合い、自己をよく理解しようとした結果、また理解しようとしたために、自己変革が求められることはよくある。これはある種の矛盾である。自分自身であることを失ってはいけないし、自己を理解する必要があるが、自己を変革する必要が生じてくる。この矛盾を受け入れることこそが大切だと彼は説く。彼の弱さは彼の強さの表れである。弱さを見せない人間が、矛盾を引き受けない人間が、強いように見えて最も弱い。そしてそれが、彼の最後の置き手紙のメッセージにつながるのである。
妻が自殺した男の話はちょっと難しくて考察が追いつかないです。まあこの映画それ自体は、気楽に力を抜いて3時間みられるところがおそらくいいところなので、考察しながら観る必要もないんだろうけど。比較的出来事も少なくて、退屈な時間も多いんだけど、長くは感じないというのが不思議でした。
電車と車の対比や交錯、朝と夜の対比、船やバイクとワゴンという様々な乗り物の活用。こういった点はすごくカッコよくて面白い。影絵のシーンと女の人と映画館で色々やりとりするところは本当にカッコいい。リュディガーフォーグラーは3部作毎回似たようなキャラで、本当によく似合ってると思う。ただ今回は何かを作るクリエイターではなくて、むしろ技術者であるところが大変面白い。前2作はこの点ではよくある映画になっているが、今作は技術者である、というある種のミスマッチが、キャラクターおよび作風に深みを与えていると思う。
ラストシーンかっこいい。あと2人で歌歌うところ本当に好き。
ヴェンダースの映画、観たときはあんまり面白くなかったり、退屈なシーンが多かったりするんだけど、観終わって思い返したりしてると、すごいいいもん観た気になるの不思議だわ。実際レビーで色々書いてしまってるし。
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