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犬王のStroszekのネタバレレビュー・内容・結末

犬王(2021年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

最初はよく、中盤胡散臭く、終盤は再びよくなった。

三種の神器の一つである神剣により盲目になった友魚と、化け物として生まれた犬王の物語。

二人は歌と踊りというそれぞれの芸事で共鳴し合う。

犬王が踊りを極めるたびに、足→手→背中→顔と、呪いが解けていく。美に近づいていく。

私はそこに胡散臭さを感じた。なぜなら犬王と友魚のパフォーマンスが能楽ではなくロック、プロジェクション・マッピング、バレエ、フィギュアスケートと、西洋文化の盗用に過ぎないように感じたからだ。能楽よりもそれらが人々を熱狂させるというのは、いささか日本の伝統文化を甘く見過ぎではないだろうか。

しかしついに変容が完成した犬王が仮面を取り、ディヴィッド・ボウイのような顔が出て来たとき、「ここまでロックオペラとして開き直るのか…」と感銘を受けた。

しかしさらにその顔が変容し、足利義満と面会しているときの顔はまるでホアキン・フェニックスの『ジョーカー』である。

なぜジョーカーになった彼が、あっさり友魚を見捨てられたのか。それはやはり彼の芸事が、化け物であるのをやめるための手段に過ぎなかったからではないか。そして彼は王の道化としてだけ生きる道を選ぶ。

対して友魚の歌は、「報われなかった者たち」を解放するためのものであった。それ自体が目的であった。

「見届けようぜ」と歌ってきた友魚が、最後に「報われなかった者たちの物語を歌うんだ」と何度も言うところで涙が出そうになった。語る行為の本質がこんなに表れた台詞があろうか。

よくよく考えると、平家の呪いを受けた同士でも、諸行無常の代表的存在である平家武者の亡霊に取り憑かれた犬王よりも、現在も延々と残る天皇制度の根拠たる神器に傷つけられた友魚の方が業が深いのでは。平家武者の怨念を祓って綺麗になった犬王とは異なり、友魚は復讐のしようがない。何せ600年経ったいまでも天皇制は続いているのだから。

名付けの物語でもあった。犬王が自分にその名を付ける。友一も琵琶法師の集団で付けられた名前を捨て、友有と自らを命名する。自分で自らの在り方を選ぶ。友魚は最後まで友有としてあり続けるが、犬王は自らの王ではなく、権力者に承認され、彼の許す範囲内でだけ存在し続けることを選ぶ。あんなに自由だった犬王が、粛々と足利義満の定めた踊りを踊る場面。彼の美しい顔はすでに死んでいる。
 
しかし友魚と犬王が600年の時を経て相対するとき、二人は何者でもなくただ一緒に歌い踊るのが楽しかった友人同士として会っている。出会った瞬間、すでに彼らの魂は解放されていたのだ。いつまでもいつまでも彼らは輪になって歌い踊る。犬王の顔は醜いままだが、目はキラキラと輝いている。

途中のロックパートこそ陳腐に感じたが(だって能楽の話でエレキでメロディを奏でるのはさすがにそぐわない)、最終的に面白い着地をしたと思う。呪いを解く物語ではなく、呪いこそ自分のアイデンティティであり自分の生を躍動させていたものかもしれない、という理路は、ディズニーが女の子の呪いを解く話を延々とやっているのとは対照的である(どちらがいいという話ではないが)。

俳優であり踊り手である森山未來が琵琶法師の友魚を演じ、歌手である女王蜂のアヴちゃんが踊り手の犬王を演じる。その逆転も面白い。
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