ニューランド

呪いの館のニューランドのレビュー・感想・評価

呪いの館(1966年製作の映画)
4.6
☑️『呪いの館』及び『リサと悪魔』▶️▶️
少し後でTVでも放映された、4時間に及ぶ『私のイタリア旅行』が初上映されたのは、20年近く前の事だったろうか。ソースの映画作品を変に刻まず、ワイプを多用し·宝物のように扱い、現地の映画の要人の視点も引入れ、製作者が自己世界観との切り結びと普遍発展ポイントをトコトン追求した銘品だったが、戦後最大の潮流ネオレアリズモの作家を扱った第一部に次いで、(実際に作られたか不明も)第二部はバーヴァらを取り上げると予告されていた。そうか、フェリーニ·ロッセリーニらに匹敵のビッグネームなのかと改めて納得した(勿論、一般的名画も、B級も、アングラも、アマチュアも、TV用も、未開小貧国作も、大劇場70ミリ等スクリーンも、昔の小型めブラウン管鑑賞も、プロジェクター↔電波やネット配信も、フィルム↔ビデオも、アナログ↔デジタルも、一切の予めのヒエラルキー·観る行為の純度の差異を、認めない製作者の姿勢があったればこその選択の面もあるが)。
『呪いの館』は´60年代中頃の作だが、次第に映画界にも強まるポップアートの影響も少なく、ことすら重厚であるが、リアルな現実·歴史·風土に根ざした作品ではない。また、強烈な映画的な瞬間の力を誇示·ぶつけてくる作品でもない、瞬間はいつしか消え去り、独自の感触だけが残り、張り付く釣瓶打ち表現とは無縁、また論理立て攻め込み圧迫のオブセッションとも。あくまでこれは、外へ飛び出さぬ映画内の流れ主体の他愛のない映画である。『捜索者』『刺青一代』『十字路の夜』『神の道化師フランチェスコ』らがそうであるように。そして、それらと同様に映画の内なる力が、現実の位置取り·力·バランスを中から変えるに至るのだ。ズームの速いのも·大きいのも·反復もある多用感、どこへ向かうのかわからない人の動きとフォローやそのパンの左右·奥へ往き来不確定は、優雅で本質的だ。陰影·くすみ·重み·質感が貫き纏う前世紀始めの因襲と迷信の村落·中心の旧家の世界に、青から緑、黄色系から赤、白い霧や蜘蛛の巣敷かれから闇の深み、それらが溶け込もうとしているバラけぬ何かの色彩的核とその在りかの求道が感じられもす、多分に当時のカラーフィルムの特性の反映の面はあっても。石像らも通路·門や、墓石らや手摺や窓枠らも適度に重く、独自の高貴な佇まいがある。仰角多用も、(回しての)螺旋階段の真俯瞰·真仰角へも至り、権威と離れてく。白い少女の窓にかける手、その位置や鞠の不可思議動き、シーツや肖像画や柩·墓石、焼ける手紙、人形らや蝋燭群、勝手に鳴る鐘らの生気ある自律性も、意味合いを超えて存してゆく。死体や血糊やサディズムも騒ぎ立てぬ品位が重さとなり、浮わつかぬ。とりわけ、部屋から部屋へ追ってくは自己の後姿繰返し、螺旋階段駆け降りてく筈がその上位に戻り同時存在の感触、は本作のストーリー完結を越えて、作品世界の終点のない堂々巡りの本来の姿を端的に示す。司法解剖医、臨時立合帰郷女学生、警察署長、村長、その恋人の霊媒師、20年前(1887)の娘惨死の屋敷の女主人、娘の妹の存在、館の使用人と家族ら、村人、それらの関係とそれについての探りの止めどなさ以上の自己過剰意識の深まり·泥沼化。しかし、現象としては病的な怯えも、映画世界としては引き込む生の本能的な魅惑·深みと映る。全ての要素が、1人の無茶苦茶な破壊·破滅願望を、独自な正当化·絶対化へ導いてゆく。そしてそれら全ては、あっけらかんも·懸命当然の、現実的·物理的瞬間決意·判断·行動力が破ってゆく。極上の映画体験、どんな巨匠でもここまで無心の·中世の名もなくも·世界に名だたるブランドの虚名を打ち破り無化する·職人の鏡的仕事はしてこなかった、とさえ云いきりたい。
娘のあの世からの引き戻しにつれて、連綿と入って来て殺人の連鎖を引き起こし、逆に言いなりに·逆らえなくなったという、悪霊たちは明示されない。老母の方が上手く利用しているのか、あるいは特に存在しておらず、自らの留まらぬ殺意の口実のウェイトが高いのか。何れにしても、その物自体が顕にされない分、その人の心とカブる存在はより怖く、身近にリアリティを感ずる気もする。口伝え?·鎖断ち·悪霊·憎しみ·呪い·復讐·利用といった単語が妙に別のニュアンスで滲みてくる。
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バーヴァについては元々大したファンでもなかった。『~墓標』『白い肌~』等はスクリーンやブラウン管で古典として観てはいたが。それが、もっと前からかも分からないが個人的には、´90年代半ばに捕まえたスプラッターもののビデオブーム、NHK·BSの作家連続上映(、21Cに入ってよりは、オールナイトやレンタルDVDで)で、ある程度纏めて、間置かぬ位に探し観まくってこの作家にはまった。チープもゴージャスも、より深く美意識·内面の説明つかぬ品位があって、殆ど全てが圧倒的に染み入る傑作だった、虚仮威しでない本物の。当時の一番の高評価が『リサと悪魔』だった。只、他作と違いカタルシスは微妙な作品でもあった。
『リサ~』は、描写を意味付けというより、商業映画の公式的な確定を拒んでるかのような作品で、多くの石像や調度·古道具屋や屋敷の天井や壁のすぼまる圧力や·噴水や石橋や狭い路地·ラスト一転瓦解姿の館の蔦も張り、その豪華さ侭に、作家の宇宙の具現化としてリッチであるかというと、それも大して気張ってる風でもない。動きの切返し·出入り捉えに関しても、確認を外すような短さ·90°や45°入れが緩衝になってたり、切り返す前に縦の図の更に寄り図がはさまったり、顔のCUにしても振り向き暑中で寄りなのかどんでんなのか判別を拒み、実際ベースはしっかり端正なのにその硬度を出さない。衣装や装置·ライトの色彩はカラフルも、画調自体が光をまぶし囲い込み、また夜の野外はモノトーンめで、随分ソフトだ。ズーム前後、回り込み、車中ゴタゴタ揺れ、それらは映画話法を無化·特化してて、その侭空間感覚が狭まり·とろけ狂ってくる。ローめ仰角めがメインで自然な·しかし基づくもの不明の重力を表してる。奥深い鏡や窓へ写り込みも効果と味わいを持つ。そしてやがて、生と死·現在と過去·現実と夢·生身と模造、が入り繰った展開で、打撃や墜落·血糊のリード·嘗ての生者の骸骨·傷残した生返り者·裸体や性愛·相手を替えての愛·威圧と性愛錯綜の家族内世代·死者を連れ去る役に忠実な悪魔、らが要所要所にどぎつく急に·または長めに露骨めに、表面への対立対抗要素として現れてくるが、作品をバタバタさせない。より、柔らかく、より豊かに、より強靭にしてゆく。映画として与えるを豊かに、求めれるを無化してゆくのである。
以前TVで観た時は、もっとストレートに多角でリッチで強靭に思えたが、使用ソースやその表し方の違いもあるのだろう、しかし、ひと筋縄でゆかぬ作家世界が提示され、どこかで我々の持つべき、素直さ·イージーさ·強靭さ、の自然体に繋がっているのは、変わらず感じる。
バーヴァの世界は、ショッカーの面はいつしか沈み込み、耽美端麗も大袈裟さを除けて、フィルムの奥の、現実とは勿論違う普段意識しない、奇形を溶かし込んだ、実は最も求めていた、権威や飾りを外した思わぬ安定·安心の不思議で独特に落ち着いたまろみを与えてくれる。
『リサ~』の、言語がごっちゃになってるが、NHK放映版はそんな事はなかったと思うが。
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