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ラ・ジュテのmochiのレビュー・感想・評価

ラ・ジュテ(1962年製作の映画)
4.2
すごい!こういう映画いいよね。時間が30分以内なのも、静止画の連続であることを考えるとちょうどいいとおもう。ラストの展開はまあ想像通りで、現代の人なら読めてしまうとは思うけど、当時の人にはおそらく驚きだっただろうし、その後の映画にも影響を与えたんだと容易に想像がつく。テリー・ギリアムの「12モンキーズ」とか影響受けてるんじゃないかな。そして何より、別に結末が想像できてもちゃんと他のところで楽しめるし面白い点が良い。
過去をぶっ壊れてしまった世界から観に行く、という設定と、ナレーションと静止画の連続という映画のスタイルがとても良くマッチしていると思う。この映画の手法それ自体が評価されるというよりも、このテーマに、この手法を選択した点が評価されるべきなんじゃないかな。
過去への時間を旅するときに、それが記憶という点と本質的な意味で関わっている点がおそらく肝要なんだと思う。過去の実在論・非実在論論争ははるか昔から盛んで、過去の出来事の客観性もこの問題には関わってくる。過去およびそれに紐づけられた出来事はたしかに一般的な意味では実在する。しかしそれはある意味実在しているわけではない。それは二つの点による。第一に、存在するのは空間化された過去ではなく、永遠の現在である(この点は劇中でも明確に語られる)。第二に、人間という存在者が存在しない世界においては、(少なくとも、我々人間が知覚する意味では)過去は存在しない。過去およびそれに紐づいた出来事というのは人間の経験のおりなしによって成立するものである。しかしながら、これは過去の客観性を破壊しない。私が何かを経験したとき、周りの他者も何かを経験する、もしくは矛盾した経験を他者がしないといういみで、過去は客観的になりうる。これは歴史というのは必ずある視点からの歴史である、という事実をさらに前進させたものである。劇中で主人公は、自己の記憶を旅するのか、実際に過去に行っているのかは厳密には語られないが、この問いはそもそも間違った問いである。主人公は、過去の記憶であるところの、実際の過去を旅したのである、ということになる。以上の2点をまとめると、過去は2つの点で実在しない。一つ目は、あるのは流れていく現在であり、過去はその意味で実在しない。二つ目は、過去とは経験のおりなしであり、我々が一般で措定する意味での実在ではない。
一つ目の点は、劇中で2人がいく、剥製博物館の剥製に良く似ている。剥製はたしかに、当該の動物の存在を保証する。たしかにあの動物はいたのである。しかし、剥製はもはや動物ではない。剥製は当該の実在を指し示すが、その実在そのものではないのである。同じことが過去にもいえる。我々は過去がたしかにあったということを確かめる術を持つ(ただし、この場合の「あった」というのは先述の第二の点での制約はまだ受けている)。しかし、過去そのものは決して実在してはいない。
こういうふうに考えると、過去への事実への旅なのか、記憶への旅なのか、という点は曖昧にしておく点に、我々の経験の深い次元を映し出している、と言えなくもない。ただこの解釈だと、未来については説明が難しくなる。未来の実在性もよく問題になるが、未来についてはより問題が複雑である。少なくとも、この映画では未来は我々が一般的にいう意味で、実在するかのように語られているようにみえる。
しかし面白い映画だった。あと私の頭が悪すぎて、最初のシーン普通に空港にいるときに第三次大戦が始まったのかと思ってた。
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